【3分で読める小説】仕事の上流

2022年5月1日

社会人になってようやく仕事の基本が身についてきた頃、先輩から声をかけられた。

「田崎、来週の前半は出張だ。クライアントさんのところに一緒に行くぞ」

初めての出張だと聞かされて、おれは気持ちが高ぶってくる。

「どのクライアントさんですか?」

すると、先輩はある企業の名前を口にした。そこは老舗の飲料メーカーで、広告制作をメインにしているうちの会社とは少しだけお付き合いがあったな、と思いだす。

「新しい広告の仕事ですか?」

尋ねると、先輩は首を横にふった。

「いや、この機会に上流を攻めに行くことになってな」

「えっ!」

それを聞いて、おれはますますテンションが上がる。

“上流”“下流”というのは、ときどき先輩たちが口にしている用語だった。

“下流”とはあらかじめ決められている要件に応じるような仕事のことで、うちの会社でいえばクライアントの広報部門から商品やサービスの広告制作を依頼されることがそれにあたる。

対して“上流”とは要件が決められる前のもっと大元にある仕事のことで、うちの会社でいえば先方が商品やサービスを企画開発する段階から一緒にやらせてもらったり、さらに手前の経営戦略にかかわらせてもらったりすることがそれにあたる。

二つは、上下関係ではなくてどちらも大切な仕事だけれど、上流からかかわることができれば、うちとしては結果的に扱わせてもらえる仕事が多くなる。業務の幅も広がって、うちの会社も多様化がはかれる。

だから、最近は社を挙げて、積極的に上流を攻めていこうという動きが強まっていた。

……というのは、先輩からの聞きかじりだ。

正直なところ、おれは、具体的な上流の仕事については何もわかっていなかったし、自分みたいな実力不足の新人が携われるのもまだまだ先だろうと思っていた。

それもあって、喜びが落ち着くと緊張感も湧きあがってきた。

どんな感じになるんだろう……。

そんなおれに、先輩は言った。

「なかなかの体力勝負になるからな。覚悟しとけよ」

おれは勝手に想像した。

連日連夜、徹夜で商談したりするのだろうか。はたまた夜通し飲み会か……。

いずれにしても、体力勝負ならドンとこいという思いだった。自分には、学生時代に登山部で培った自慢の体力がある。

おれは気合いを入れて返事をした。

「任せてくださいっ!」

出張当日、おれは先輩と一緒に会社を出ると電車で都内から郊外に向かった。

先輩からは、事前にこの電車での移動経路を聞いていた。

が、先方の会社情報を調べた限りは、本社は関西にあって、新幹線や飛行機じゃなくていいのかと何度も念を押して確認していた。

「まあ、下手な予備知識はなくていいから」

そう言って、先輩はどこで何をするのか詳しく教えてくれなかった。唯一指示されたのは、登山の装備で来るようにということだ。

そのうち降り立った駅からさらに歩いてたどりついたのは、山のふもとだった。

「よし、登るか」

歩き始めた先輩に、おれは尋ねる。

「登るって、この山にですか……?」

うなずく先輩に、不安が膨らんでいく。

「でも、仕事は……」

「これが仕事だ。さあ、行くぞ」

大いに首をひねりながらも、同じく登山の格好をした先輩のあとについていく。

道なき道を行くうちに、やがて視界が開けて河原に出た。

「ちょっと休むか」

先輩と一緒に、手ごろな岩に腰かけた。

青空の下で深呼吸すると、新鮮な空気に生き返るような気持ちになる。

川の水音が心地よかった。ひらひら舞う蝶や、すいすい飛翔するトンボにも癒される。

「じゃあ、行くか」

先輩は時計を見て立ち上がり、また川に沿って登りはじめる。

しばらくすると、前方に数人の人影が現れた。

先輩が声をあげたのは、そのときだった。

「お世話になります。11時からアポを入れさせていただいている、高橋と申します」

先輩は頭を下げながらそちらに近づき、改めて社名と名前を口にした。とりあえず、おれも合わせて頭を下げる。

「お世話になりますっ! 田崎と申しますっ!」

相手は河原でキャンプをしているようだった。

そのうちの一人が、穏やかな笑みを浮かべて言った。

「今日はご足労いただきまして、ありがとうございます」

先輩が全員と名刺交換をしはじめたので、おれもつづいた。もらった相手の名刺には、まさに出張の目的だった飲料メーカーの社名と、「マーケティング部門」という字が書かれていた。

混乱しているうちにもイスをすすめられ、おれは座る。

世間話もそこそこに、先輩はさっそくリュックから自社紹介の資料を取りだして皆さんに説明をしはじめた。おれは隣で背筋を伸ばしてそれを聞く。

先方からの質問などもはさみながら小一時間ほどがたったころ、切りのいいところで相手の一人が口にした。

「お腹が空いてきましたね。そろそろお昼にしましょうか」

それからあれよあれよという間にバーベキューの準備がはじまって、ノンアルで乾杯しつつ、炭火で肉や野菜が焼かれはじめた。流れに任せて手伝っていると、先輩が言った。

「うちの田崎は学生時代に登山部でして、アウトドア全般にも詳しいんですよ」

「それは頼もしいですね」

河原でのバーベキューは言うまでもなく最高だったが、ふとした拍子に疑問はよぎった。

これは何をしてるんだ……?

が、先方の前で先輩に確認するのもはばかられて、とりあえずはこの時間を楽しむことに集中した。

やがて食事を終えて片づけをすると、先輩は立ち上がった。

「それでは、本日はこちらで失礼します」

皆さんに見送ってもらいながら、おれたちは荷物を背負って出発した。

しばらくたって、おれは尋ねた。

「あの、これってどういうことなんですか……? というか、ぼくたちはどこに……」

「言っただろう、上流を攻めるって」

先輩はつづける。

「このへんから、その上流に差しかかってるっていうことだ。まあ、最終的な目的地は、上層部の皆さんがいらっしゃるこの川の最上流だが」

「ええっ?」

おれは混乱してしまう。

「上流って、川のことだったんですか……!?」

「ああ、仕事の上流にかかわる方は、川の上流にいらっしゃるものだからな」

「そうなんですか……!?」

驚きつつも、おれはつぶやく。

「でも、先方の本社は関西にあると……」

「法律上はな。そりゃもちろん、この川沿いにいるみなさんがそっちにいらっしゃるときもある。が、多くの時間を過ごしているのは、この川だ。ほかの部門の方々も、より上流に関係してくる管理職クラスになってくると川と会社を行ったり来たりされてるな。マーケティングの方たちがさっきの場所にいらっしゃったのも、そういうわけだ」

「ははあ……」

うなりつつも、おれは聞く。

「……ですけど、どうしてこの川なんですか? 関西にも川はたくさんあるのに……」

「そのあたりは最上流の方々に直接聞いてみたらいい」

「はあ……」

瞬間、別のことが頭をよぎった。

「あの、もしかして……先輩方が普段から仰っているほかの会社の“上流”というのも、ぜんぶ川のことなんですか……!?」

「そうじゃない場合もあるが、老舗の場合はだいたいそうだな」

全然知らなかったと、目から鱗が落ちるような思いになる。

それならそうと、早く教えてくれたらいいのに……!

そんなことがありながら、おれは先輩と一緒に川沿いを進んだ。

上流を目指すにつれて、川の幅は少しずつ狭くなっていった。

整備された散策路などあるはずもなく、おれたちは河原や川沿いの藪の中を進んでいく。ときには川に入って反対岸に渡ったり、現れた沢をよじ登ったり。

先輩からは、途中でこんなことも教わった。

クライアントさんの“最上流”の場所がわかっているからといって、そこにヘリで直行すればいいというわけでは決してないということを。

「まあ、ヘリだと山の中で降り立ちづらいということもあるが、本質はそこじゃない。最上流に至るまでのプロセスにも大きな意味があるんだよ。さっきのマーケティングの方たちみたいに、一口に上流と言ってもいろんな領域があるからな。おまえもプロセスを軽視するなよ」

「はいっ!」

荷物を背負って道なき道を行くうちに、ほかの部署の方たちとの出会いもあった。

企画開発部門の人たちは、拓いた更地にテントを張って仕事をしていた。

新規事業部門の人たちは、切った木や編んだ葉っぱで雨風をしのげる場所をつくって仕事をしていた。

ライフラインも心もとない環境で働く皆さんを目の当たりにして、尊敬の念がこみあげる。

おれは、そのみなさんと名刺を交換しつつ、束の間のお茶の時間をともに過ごした。

「到着したぞ」

先輩がそう言ったのは、日が傾いてきて野宿も覚悟していた矢先だった。

おれたちは、ついに目的の場所にたどりついた。

「ここが、社長を含めた経営層の方々が滞在されてる最上流だ」

目の前には焚火を囲んだ数名の人がいた。

そのみなさんに、先輩は疲れを感じさせない口調であいさつをした。

「お世話になります。高橋と申します」

先方の全員からは洗練されたオーラが漂っていて、萎縮してしまいそうになった。

けれど、おれは自分を奮い立たせて声をあげた。

「お世話になりますっ! 新人の田崎と申しますっ!」

「ほぅ、新人の方ですか。よろしくお願いしますね」

そう口にしたのは、すぐあとに社長だとわかった人物だった。ほかの皆さんも微笑んでくれ、少なからず安堵する。

全員で焚火を囲んでひと息つくと、先輩はこれまでのように自社資料をもとにしてプレゼンをはじめた。オレンジの炎が照らすみなさんの顔は真剣で、緊張感もおのずと高まる。それに臆することなく、先輩は熱心に話しつづける。

社長さんが口を開いたのは、あたりがすっかり暗闇に包まれたころだった。

「あなたの熱意は伝わりました。今後のことについては、またじっくり検討させていただきましょう。それはさておき、そろそろ夕食といきますか」

その声を合図に、皆さんはテキパキと準備をはじめた。

そんな中、串に刺した肉を社長さんが焚火のそばで焼いてくれた。

「どうぞ、ゲストの方からお先に召し上がってください」

社長さんは、きれいな焦げ目のついた肉を渡してくれた。

「山で獲った猪の肉です」

「恐れ入りますっ!」

おれは先輩と一緒に貪りついた。

「うまいですっ!」

「それはよかった」

そのあとに出してもらった野草のサラダも、飯盒で炊いたお米も絶品だった。

食事のあとは満天の星のもと、パチパチと爆ぜる焚火を見ながらウィスキーの入ったグラスを傾けた。

夜も更けてお開きになり、おれは借りたテントに先輩と一緒に入り込む。

寝転ぶと、登山の疲労感が押し寄せてきた。

一方で、充実感にも包まれていた。

なんとか仕事につながればいいな──。

たくさんある川の中でも、なぜみなさんがこの川にいらっしゃるのか。

その理由が判明したのは、翌日、朝食の準備をしているときだった。

「いやあ、あなたは素晴らしいですね。ノリもいいし、アウトドアにも精通していらっしゃるし」

社長さんから褒められて、おれは悦に入っていた。

そのときだった。

あたりが急に暗くなってきて、ゴロゴロと雷が鳴りはじめた。

「おっと、これはマズイ……」

直後、大粒の雨が降りだして、全員で慌ててタープの中に避難した。

妙なことが起きたのは、そのときだった。

木々や地面を打つ雨音に交じって、こんな声が聞こえてきたのだ。

──あの商品の製造コストは、もっともっと削れるぞっ!

──競合他社の追随を許すなっ!

──お客様への愛も足りてないっ!

おれはポカンとしてしまう。

社長さんは頭をかいた。

「いやはや、お恥ずかしいところをお見せしましたね……」

声が降りそそいでくる中で、社長さんが口にした。

「この場所にだけ、こういった形で声が降ってくるんですよ。何でもこのあたりの上空の居心地がよく、とても気に入ったということで」

「あの、この声は……」

戸惑っていると、社長さんはこう言った。

「上流の、さらに先からのものですね」

苦笑しつつ、社長はつづけた。

「我々がここにいるのも、この声があるからなんですよ。こうしてときどき降ってくる、天に昇った創業者の小言──いえ、恵みの助言を受け止めるために」

(了)