【コラム/10月30日】原子力の日に考える~原点は大量エネ供給期待、今も変わらず

2023年10月30日

飯倉 穣/エコノミスト

1,平和利用演説が淵源

60年目の「原子力の日」を迎えた。アイゼンハワー大統領の国連原子力平和利用演説から70年、そして原子力予算計上から69年である。 

今年もメッセージがあろう。「本日、10月26日は原子力の日です」。そして解説「原子力の日は、1963年(昭和38年)、日本原子力研究所の動力試験炉(JPDR、出力12,500Kw)で、日本が初めて原子力による発電に成功した日で、また56年(昭和31年)に日本が国際原子力機関への加盟を決めた日である」と(日本原子力研究開発機構)。

今日も原子力利用は注目度高く、政治・経済・社会且つ報道手合いの課題がつきない。「核ごみ調査 根強い反発 寿都町議選反対派の得票49%」(朝日23年10月5日)、「社説 原発支援強化 経済性があったはずでは」(朝日同8月28日)、「原発処理水 放出を開始「廃炉」目標まで30年 デブリなど難題」(日経同8月25日)、「最古の高浜1号機再稼働 原発「長期運転」幕開け」(日経同8月17日)等々である。

内容は、経年使用の原発再稼働の安全性、福島第一原発の廃炉、放射性廃棄物の中間貯蔵・最終処分、原発の経済性等である。原子力批判の声も続く一方、内外情勢対応で原子力期待も強い。何故か。敗戦後経済推移から、エネルギー源としての原子力開発を考える。


2,何故原子力開発に熱中したか

原子力開発の背景に、国内経済・エネルギー資源事情そして国民生活の推移がある。

第一に敗戦後エネ不足体験である。1940年代後半(敗戦後)の経済である。国民はタケノコ生活、「家計は赤字 貯金引き出し、財産を売る、人から金をかりるかもらう」。家庭用燃料は、戦前比(昭和5~11年=100)、木炭65、薪66、練炭豆43である。鉱工業部門の生産は、戦前比(昭和10~12年同)終戦直後1割、21年9月3割の後,22年4月3割弱で停滞。生産不振原因は、設備の不足、労働力の不足でなく、第一に原料及び石炭、電力の不足であった(「経済実相報告書(第一次経済白書)」47年7月)。

故に傾斜生産(46年12月以降)となる。敗戦後の飢餓を乗り越え、ドッジライン(49年3月:縮小均衡調整)不況後、朝鮮戦争特需好況(50~52年:ガチャマン景気)で一息、サンフランシスコ条約で独立(52年4月発効)。そして53年停戦不況、54年不況(吉田デフレ予算で経済均衡努力)を乗り越えた。

日本経済は、復興一段落ながら、経済拡大願望の下で国内エネ事情は先行き見通し難であった。そこにアイゼンハウアー大統領の国連演説(原子力の平和利用提唱)があった(53年12月8日)。核分裂性物質の共同管理等に加え、核分裂性物質の最も効果的な平和的利用の探求を提唱した。独立後の日本に原子力開発が現実となった。


3,国内エネ事情、将来展望描けず

55年当時の我国のエネ事情は、切実だった。主力の石炭生産の頭打ち、水力開発の立地難に直面する。経済に必要なエネ需給で各国同様、第二の産業革命を招来しそうな原子力の平和利用に期待が集まった。当時電力で、水力発電、火力発電、地熱発電、風力発電、潮力発電、原子力発電の検討があった。原子力は、昨日までの夢扱いから正夢となる。

原子力平和利用国際会議(55年)で、日本代表は、政府試算を紹介した。わが国のエネルギー需要は、石炭換算75年2億トンで5000万トン不足、2000年4億トンと推定すれば、国内炭、包蔵水力の限界、消費効率の向上、新エネの獲得だけで間に合わず、原子力の開発を期待したいと。エネ不足を補う有力候補であった(「エネルギー読本」動力新聞社55年12月参照)。

1 2 3