【現地ルポ/4月24日】居住人口わずか180人…… 双葉町の苦闘と再生の道

2025年4月24日

東京駅から特急列車に揺られること約3時間20分。福島県の双葉駅に降り立つと、静かにたたずむ旧駅舎と新しく建てられた町役場が、この地の複雑な過去と未来を物語る。福島第一原発事故で全町避難を余儀なくされた双葉町での居住が可能になってから2年半──。復興には課題が山積している。

茶色のレンガが特徴的な旧駅舎

2011年の東日本大震災後、東京と仙台を結ぶ常磐線が全線開通したのは20年3月のこと。避難指示の一部解除を受け、運転を見合わせていた富岡~浪江間での運転をようやく再開したのだ。双葉駅は茶色いレンガが特徴的な旧駅舎を休憩スペースとして併設している。その向かいに、22年に完成した双葉町役場がある。

真新しい双葉町役場

福島第一原発5、6号機が立地する双葉町は、原発事故の影響で「全町避難」を余儀なくされた。14年までは埼玉県、22年までは福島県いわき市に役場機能を移転。22年8月に国が除染やインフラ整備などを集中的に行う区域特定復興再生拠点区域内の避難指示が解除され、住民が居住できるようになった。

住む場所がない 多くの町民は戻らず

駅から太平洋に向かう県道254号線は「復興シンボル軸」となっている。道の周囲を見渡すと、当時のままの建物が点在している。時計が14時46分で止まっていたり、部屋の中が散乱していたり……。この区域に限らず、双葉町の建物は長期間にわたって人が立ち入らなかったため、野生動物の侵入などで損壊した。

「復興シンボル軸」となっている県道254号線
消防団の施設は「あの日」のまま……

津波被災地に整備された復興産業拠点には24社が進出した。そこで働く人々は双葉町に住むのが便利だが、場所がないために町外に住まざるを得ない。新たに家を建てたいという希望者は多いが、建築資材の高騰などにより、民間での住宅建設は進んでいない。町営住宅の跡地に建設された約40戸のアパートも満室で、空室待ちの状態が続いている。

双葉町の伊澤史朗町長は「住みたいという人がいるのに場所がないことは、町にとって大きな損失だ」と危機感を募らせる。

一方、全国の避難先に散らばった双葉町民の多くは戻ってきていない。現在の居住人口は約180人で、震災前の約7100人と比べるとごくわずかだ。それもそのはず、震災後の14年にわたり、多くの町民は避難先でそれぞれの生活を送っている。仕事や子育ての環境を考えると、故郷に戻るという決断は容易ではない。震災当時、双葉町に住民票があった人が新たに自宅を再建する場合、800万円ほどの補助を受けられるが、制度を利用する人はまだ少ないという。

「それでも、戻ってきてもらうための取り組みは続けていかなくちゃいけない」(伊澤氏)

東電と共存の歴史

254号線をさらに進むと、左手に真新しい建物が見えてくる。20年に開館した東日本大震災・原子力災害伝承館だ。館内の史料を見ると、東京電力が夏祭りへの参加や「書道コンクール」といった地域事業の主催など、双葉町や大熊町といかに共存してきたかがよく分かる。原発事故という負の側面だけでなく、フラットな視点で立地自治体の歩みを振り返っていた。

地域共生の歴史や復興の道のりを伝える東日本大震災・原子力災害伝承館

近年、国内原発の再稼働が進んでいるが、双葉町の復興は始まったばかりだ。将来の電力供給に目が向けられる今こそ、被災地の歩みに真摯な眼差しを注ぐべきではないか。