【コラム11月30日】米大統領選にそれでも学ぶ
新井光雄/ジャーナリスト
時代区分というものがある。日本であれば、もうその意識が相当に薄れてはきているものの、敗戦を挟んでの戦中・戦後という区分がある。若い人たちにはほとんどないのだろうが、高齢者社会ということでまだまだ生きている時代区分だろう。世界を俯瞰しても、第二次世界大戦は相当に受け入れられる区分か。しかし、これは聞いた話だが、アメリカではあの大恐慌が長い間、一つの時代区分だったという。しかし、これは一世紀に近い前のこと。それでは新しい区分に第二次大戦と思いがちだが、違うらしい。今はリーマンショックを言う人が多いと聞いた。
さてこれからはどうか。世界では目下のコロナ禍が候補として当確だろうが、ラジオである評論家がアメリカでは、あるいは世界でも、今回の大統領選がそれになるかもしれないという。なるほど今回の米大統領選は異例ずくめ、選挙は終わったものの、大統領が簡単には確定しなかった。日本からみると珍現象、不思議な状況というほかないが、多分、アメリカ人にとっても異常事態なのだろうと想像する。米全国民に強烈な記憶を残すに違いない。後世、「あの時は」といって頻繁に記憶のなかに何度も反芻されていく、そんな気がする。
それにしても日本の報道ぶりも、この歴史的な珍事にいやというほどに詳しかった。知人が日本はアメリカの属国的存在であることを再認識したと皮肉ったが、そうと言えるかとも思えた。すっかり個人的に米国大統領選通になった気分だ。少し笑いたくなり、実は少しアメリカが羨ましくもなった。それは米国民の選挙への関与の仕方だ。むろん、関与過剰の暴力的な対立は論外だが、必死になって応援する民主・共和両陣営の活動をみていると政治と個人の間に一体感があり、驚くばかりだ。
日本でも選挙屋という感じの人たちがいないわけではないが、普通、政治は生活者から縁遠い存在。支持政党などを友人、知人から一度として聞いたことがない。言ってみれば非政治性が常識化している。この差は何によるのか。やはり個人の存在が日本は希薄なのかと思える。残念ながら自分のなかにも政治的な意志的立場がない。どことなく持たないように努めてきたところもある。
メディア関連の仕事をしてきたということがあるが、アメリカでは堂々と新聞社などが政治的な立場を明らかにしている。これも決定的な日米の違いだ。それにしても二大政党のアメリカ。ほとんど一党支配下にある日本。この日本では来年の総選挙でも何も変わることはないのだろう。この点だけでもアメリカが羨ましい。日本の民主党政権の失敗の後遺症は余りにも重い。
個人的にはみっともない米大統領選だと思っているが、政治への個人参加のエネルギーはやはり見習わなくてはならないとも。