【目安箱/7月18日】「太陽光」発展のために今こそ立ち止まろう

2021年7月18日

「利回り年6%以上!」。このような宣伝文句を掲げた、太陽光発電への投資を勧誘する事業者のネット広告、チラシ、ブログの記事が筆者の眼の前にある。ゼロ金利の時代に太陽光発電は2020年の公的な補助金でも、これだけの利回りの稼げる「魅力的な投資先」と強調しているのだ。(かなり楽観的な試算と思うが、今回の論考のテーマではないので、批判は省略する。)

◆「年6%の利回り」がもたらす災害

イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏による世界的ベストセラー『サピエンス全史-文明の構造と人類の幸福』(2015年刊、邦訳は河出書房新社)を、たまたま筆者は読んでいた。歴史の中で「利回り年6%」という数字が出てきた。かつての奴隷貿易への投資利回りが年6%だったという。

奴隷貿易では17世紀から18世紀にかけて、スペイン、英、仏、オランダなどの西欧諸国の公営・民間の会社が、主に西アフリカの黒人を連行して商品として売り飛ばし、アメリカ新大陸の砂糖や綿花などを栽培する大規模農場や鉱山で奴隷として働かせた。拉致されたアフリカ人は200年で推計2000万人以上になる。この時期の各国の主要産業は農業で、経済が伸びない低成長の時代だ。「年6%の利回り」は、投資を集めた。

各国が奴隷貿易の枠組みを作ったが、それを拡大、運営したのは民間企業だ。当時の西欧社会で市民が砂糖やタバコなどの嗜好品を楽しみ、安くなった綿織物を着て、新大陸の金銀を使った繁栄を享受した。その影には、奴隷の労働があった。ハラリ氏は奴隷貿易を「倫理なく利益を追求した恐ろしい経済活動の代表例」としている。

ちょうど今、日本の太陽光発電ビジネスが、倫理の問題に直面している。日本各地で、大規模な太陽光発電による環境破壊の懸念が出て、放埒な開発をとめようという批判が広がっている。今年7月3日に熱海で、大雨をきっかけに土石流災害が発生した。18日時点で18人の死亡、14人の行方不明という大惨事だ。現場の近くに大規模な太陽光発電所があった。その発電所と災害の関係は、今後の検証を待たねばならない。しかし、これをきっかけに、太陽光発電での乱開発に、批判が一段と強まっている。

「利回り6%」という利益の力は大きい。資金を集め、太陽光発電の建設は続いている。上記のように「儲かる」という広告も続く。太陽光発電を奴隷貿易と同視するほど倫理上の問題があると言うつもりはないが、利益が倫理上の問題を当事者に忘れさせてしまう似た状況が起きている。

◆「私は悪いことはしていない」だけでいいのか?

筆者は自分の仕事で、地方で太陽光発電事業を行う人の話を聞く機会がある。「目立った産業がなく、工場もなくなったこの地方に、利益がこれだけ出る仕事はない。地権者、工務店など、多くの人が経済的に潤っている」。関係者は揃ってこのように強調する。そして、「私は合法的にやっている。一部の悪質な事業者だけを取り上げて全体が批判されるのは困る」と述べる。

確かに、その指摘は正しい面があるだろう。ただし、「6%の利回り」をもたらす公的に作られた仕組みの上で太陽光発電の関係者は利益を得ている。それにもかかわらず、太陽光の問題工事は消えない。事業者は社会からの批判や懸念を放置しているように見える。奴隷貿易での事業者の弁解にも、よく似たものがあった。太陽光発電は新しく伸びたビジネスであるゆえに、事業者の中には社会との関わりや、事業での自省と自制の大切さを考えていない人がいるのかもしれない。善良な事業者こそ、同業者の悪質な行為を批判、是正させるべきと、筆者は思う。

日本で同じような経済問題を見たことがある。かつて消費者金融業界、金融業界で、一部事業者による取り立てや強引な勧誘が問題になっていた。2つの業界の大勢は、騒ぎを大きくしたくないため、また利益も減りかねないことから、「悪質業者は一部」として積極的に自主規制に動かなかった。すると、行政や消費者保護運動、弁護士らの主導で、厳格な規制を伴う改正貸金業法(2014年完全施行)、金融商品取引法(2006年施行)が作られ、事業者は事業転換を迫られ、大きな損害を出した。無策によって自分の首を絞めたわけだ。同じような雰囲気を、筆者は太陽光をめぐる問題に感じている。

例に出した奴隷貿易は、恐ろしい影響が今に残る。奴隷商人は当時の社会でも糾弾され、倫理感からそれにかかわった自分の過去に苦しむ人たちの話が伝えられている。米国では奴隷制の廃絶のために南北戦争が19世紀半ばに発生。2020年に西欧各国で人種対立による暴動が広がった。今に奴隷の子孫のアフリカ系の人々の差別と人種差別問題は300年が経過しても消えない。「金だけ、今だけ、自分だけ」を考える経済活動は、社会を壊し、長い悪影響を与えてしまう。

◆地方の疲弊という難題も絡む

そして太陽光発電による山林の乱開発は事業者だけの問題ではない。経済的に活気が失われた、日本の地方の問題も絡む。「経済が元気ならば、太陽光発電所を誘致しないはず。鎌倉でそういう話は聞いたことはない」。高級住宅地として知られる神奈川県鎌倉市に住む引退した金融マンは語っていた。活気のある町には、太陽光トラブルの話はあまりない。住民の自治意識が強く、経済が周り、行政が敏感な場所には、問題は起きていないのだ。

ちなみに、奴隷貿易は倫理的な批判で禁止されたが、経済システムの変化も影響した。19世紀初頭から産業革命が始まり、金融市場も整備され、儲かる投資先が増えて資金の流れが変わった。またエネルギー面で石炭や電気の利用、内燃機関を持つ機械が導入されて、鉱山開発や農業の技術革新が行われ、奴隷が特に必要なくなった。

同じように、日本でも地方の経済を活況にしていくことや太陽光の技術革新が、大変だとしても、太陽光ばかりが作られる今の再エネをめぐる状況を変えるだろう。

◆太陽光発電の未来を立ち止まって考える時だ

太陽光発電を今のまま拡大していいのだろうか。

エネルギー問題を真面目に考える人は、経済的に効率性のある電源が分散して発電される「エネルギーミックス」が最適解であり、太陽光発電もその一部として成長してほしいと考えてきた。そうした応援の声があるために、日本中に太陽光発電が広がった。

しかし、それに甘えて、太陽光で、事業に関わる政治家も行政官も事業者も、多くの問題を積み残してしまったまま、ひたすら拡大に動いたように思える。特に、太陽光発電所の環境への影響、さらに住民や地域社会との共存共栄の面での取り組みで、積み残しの問題は多い。

それを是正するために、筆者の訴える以下の三つの方向の議論に、賛同いただける人は多いだろう。

第一に太陽光発電の姿を適切な形にするためには、「この発電がFITによる公的補助金の支援で「年6%以上の利回り」を補償するほどの社会的な意味があるのか」というと、検証と政治的な合意のすり合わせが必要だ。政府は太陽光をめぐる補助金を引き下げている。一方で再エネを拡大する様々な計画を打ち上げ太陽光も拡大の対象にしている。政策で矛盾が多い。責任ある事業者のみが儲かる仕組み、例えば悪質事業者の退出、コスト向上をもたらしても環境配慮の投資の義務化を進めるべきだ。「年6%以上の利回り」の儲けの仕組みがあれば、拡大は続いてしまう。

第二に地域社会と融和せず、社会やエネルギーシステムとの融和を考えない拡大は止める必要がある。自主規制の形で事業者の自省と自制がなければ、法律による強制、さらには工事による事後的な安全確保、つまり日本の法律や制度には少ないバックフィット(規制の事後適用)をしても仕方がない。日本のどこでも、太陽光発電を受け入れる雰囲気は、もうなくなっている。それをしなければ、地方で太陽光をめぐる懸念と対立、そして悪質工事による環境破壊や土砂崩れの危険は広がってしまう。

第三に受け入れるそれぞれの地方でも、行政、地元住民、利益を受ける地権者や事業者が、人任せではなく自分の問題として、太陽光の大規模発電を受け入れるかどうか、判断することが必要だ。太陽光発電がなくても大丈夫な活力ある地域経済を苦労して作り上げれば、わざわざそれを建設する必要もなくなる。

こうした対応をせずに、今のまま太陽光発電を続ければ、関わる人全てに被害がもたらされるだろう。かつての「6%の利回り」で広がった奴隷貿易が数世紀経過しても、子孫たちを苦しめているように、問題が次の世代に引き継がれてしまう。切り開かれた山林で補助金が切れて放置された太陽光発電所と、土砂崩れだらけの傷ついた山河を、日本の次の世代に引き継がせたいと思う人はいないはずだ。

太陽光発電の次の発展のために、今こそ、関係者が立ち止まり、積み残しの問題を解決する時ではないだろうか。