故荒木浩氏の思い出

2022年2月16日

【追悼】

東京電力、電気事業連合会の会長を務めた荒木浩氏が永逝された。

優れた時代感覚と実行力で、東京電力の改革を前進させた。

好きな天体観測の話になると思わず笑みをこぼす一面も

 時代の転換を自ら担う覚悟 先を読む力で「自由化」にも対応

「(私は)エリートじゃないから」。荒木浩氏は、東京電力のトップに上り詰めても諧謔的な物言いを変えようとしなかった。だがよく耳を傾ければ率直な心情と分かる。同じ総務部門を土台に強固な体制を築き上げた前任の那須翔元社長、経団連会長を務めた平岩外四元会長のラインと比べると確かにその経歴は、起伏に富んでいた。

東京生まれ、1954年東大法学部を卒業し入社。転機になったのは燃料部燃料調査課長の時である。絶大な力を持っていた上司と衝突し、行き場を失った。東電人生の危機、救ったのは慧眼の持ち主平岩総務部長だった。しかし英語が行き交うような前職場と比べると総務部門の仕事は過酷だった。人脈も細く苦労が積み重なった。

79年総務部長。やがて光明がさす。営業部門でくすぶっていた山本勝氏(62年京大法卒)を見出し、総務部門要職に就けるとまさに型破りの活躍をした。「清濁併せ呑んで物事をまとめあげる才覚、大胆で柔軟な発想」(荒木氏評)は、政・官・財・マスコミ各界に幅広い人脈を作り上げた。背番号のない同じ〝拾われ組〟の上司・部下の関係は、以後太いきずなとなり、東電改革にまい進する(山本氏は2001年不帰の人に)。

「普通の会社を目指そう」「『電』の字のつかない人と付き合おう」等々。93年社長、95年電気事業連合会会長に就任し、99年会長に退くまで荒木氏は、常にキャッチコピーを編み出し社員・グループ、さらには業界人へ呼び掛けた。

荒木経営の特色は、優れた時代感覚と実行力。〝聞く耳〟を持ち施策に結びつけた。バブル崩壊後の低成長下の電気事業を「初めて供給サイドから需要サイドへと事業運営のパラダイム変換が行われた時代」と見て「需要増~設備増強~資本費増大という悪循環サイクルを断ち切る」とした。電事連会長として「送電線を開放する」と表明した電力自由化も〝中年太り〟東電の改革に取り入れた。

「先を読む力」が備わっていて時代の転換を自ら担っていく覚悟があったのだろう。象徴的場面が、02年「東電データ不正問題」での荒木氏ら首脳陣5人の一斉辞任と次世代への引き継ぎである。過去の責任をとる形で平岩相談役の退任を含めた決断は、まさに戦後電気事業の総決算といった意味合いさえ感じる。その荒木氏を同世代の電力首脳は、「友人」「戦友」と呼び、付き合いは多年に及んだ。

懸案の電源開発の原子力進出問題が決着したのち、一方の田中眞紀子元科学技術庁長官は、「荒木さんは財界で一番笑顔が素敵」と伝えたことがあったという。そういえば好きな天体観測の話になると少年のような笑みをこぼすことがあった。笑顔も似合う人だった。

21年12月6日、90歳で逝去。

文:中井 修一/電力ジャーナリスト