【特集2】原子力発電所の廃止措置 今に生きるJPDRでの実績

2022年8月3日

欧米で廃止措置が進展 安全性への懸念は消滅

本題に戻り、その後の進捗を交えて、ワシントン会議の様子を述べる。シッピングポートの廃炉は、取り出しやすい機器から順に撤去したもようだ。格納容器が三つもある初期の発電所で、現場が狭隘だった事情もあろう。撤去された機器の多くは、その状態で密封されて輸送された。原子炉圧力容器は、制御棒などの放射能の高い機器を中に残し、コンクリートで内外を固めて遮へいとし、輸送容器にした。そのため重量が800tを越え、陸上輸送ができないので、艀に乗せてハンフォード処分場に輸送した(本誌5月号参照)。

英国はWAGRの廃炉を17年間かけてゆっくりと実行した。その背後には運転員の失業対策問題があった。その後、英国は廃炉専用企業(NDA)という国の機関が廃炉計画と廃棄物管理を統括し、民間が作業を行う体制となった。

欧州各国の発表は計画だけであったが、経済協力開発機構/原子力機関(OECD/NEA)の廃炉情報交換会議が発足し、米日の廃炉工事成功が刺激したことも加わったのであろう、90年代から解体工事が始まった。この結果、「廃炉は危険」との懸念は欧州では自然消滅し、反対運動は廃棄物輸送の阻止へと転化していったという。皮肉なことに日本には、その残渣がまだ残っているのだが。

現在のJPDRの炉心跡地

日本の発表は本格的だった。それ故か、86年12月にJPDRの廃炉工事の開始式が三ツ林弥太郎科学技術庁長官臨席の下に行われたが、その席に英仏の廃炉責任者が参列して祝ってくれた。その後日本は、米英仏と密接な情報交流を行うことになる。

僕が廃炉業を卒業したのは89年4月、4年間の廃炉務めだった。卒業時のJPDRは、格納容器内の主要設備があらかた撤去され、タービン建屋内の解体も始まっていたと記憶している。職員が手掛けた試作機械は、全て実機で試して利器を分別したが、半数以上が工事で活躍したと記憶している。想い出に残る出来事はいろいろとある。

以後の話は伝聞であるが、生体遮へいの解体撤去が終わったのは93年、格納容器の解体終了は95年、その後、整地造成などを進めてJPDRの廃炉は95年3月に完了した。解体工事期間は約8年間、発電所跡はいま平地に戻っている。

JPDRが始めた解体撤去工事は、国ごとの変化を交えながら世界各国で参考にされた。シッピングポートに次ぐ世界2番目の廃炉を成し遂げたJPDRは、日本が誇り得る功績と思う。

解体撤去とは放射能を取り除き、後を使えるようにする作業だ。その本質は被ばくとの戦いにあり、少しでも被ばくを少なくするために、頭を使って自主性を持って行う仕事だ。だから、廃炉は面白い。この言葉が結論の第3だ。

福島事故以降、日本は原子力発電所の寿命を40年と定めたが、米国では今、寿命80年への挑戦を始めている。軽水炉は、火力発電のように1000℃を越えた高温にさらされる機器部品は、燃料棒以外にない。言い換えれば軽水炉の機器は、300℃のお湯に浸かりながら働いているに等しい。従って傷みにくく、寿命100年も夢ではないと外国の解体業者はいう。この場合、原子力発電所の建設から廃炉終了までの期間は百数十年となる。さらなる廃炉の醍醐味はこれだ。その好例が、横浜桜木町だ。

鉄火と屋台と雑踏の猥雑な町だった桜木町は、横浜造船所廃止の英断によって、100年後に港の見えるしゃれたビル街に変わった。過疎地に造られた原子力発電所は、時間とともに周辺に人が集まり、過密な町に変わっていく。100年後に行われる廃炉は、町を変え、新しい夢を実現させる。この夢に合った町作りが、将来の廃炉の仕事だ。廃炉とは危険な仕事でなく、夢のある楽しい仕事である。

いしかわ・みちお 東京大学工学部卒。1957年日本原子力研究所入所。北海道大学教授、日本原子力技術協会(当時)理事長・最高顧問などを歴任。

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