【論説室の窓】宮崎 誠/読売新聞 論説委員
2050年のカーボンニュートラル(CN)の実現に向け、水素活用を巡る国際競争が激化している。
日本が後れを取れば、CNの達成が遠のくだけではなく、経済力の低下を招きかねない。
「再エネ・水素分野の激しい国際競争に対応しつつ、国内の脱炭素化を進める」
岸田文雄首相は4月、政府の「水素基本戦略」を6年ぶりに改定する狙いを語った。さらに、「関係大臣は、縦割りを廃し、相互に連携して、取り組みを具体化してもらいたい」とげきを飛ばした。
政府が、世界に先駆けて17年に策定した戦略を改定するのは、「水素先進国」の地位が揺らいでいるためだ。
日本は、09年に家庭用の燃料電池コジェネレーションシステムを世界で初めて市販し、14年には、トヨタ自動車が燃料電池車(FCV)の「MIRAI」を投入した。長年、水素の利活用で世界の先頭を走っているとみられてきたが、政府内では、「すでに米欧に追い抜かれている」との危機感が広がっている。
欧州は、ロシアによるウクライナ侵略を機に、水素の活用に向けたギアを急速に上げた。欧州連合(EU)は、ロシア産の天然ガスなどからの脱却計画である「リパワーEU」を決定し、その中で、再生可能エネルギーから製造する「グリーン水素」の導入量を、30年に計2000万tまで増やす目標を示している。
インフラ整備については、30年までに約2万8000㎞の水素パイプラインを形成するほか、幹線道路において、200㎞ごとに水素ステーションの設置を義務付ける方針だ。
さらに、水素製造業者への資金供給の仲介役を担う「欧州水素銀行」が、今秋から稼働を開始する予定となっている。民間企業の動きも活発で、昨秋以降、大型の水素関連プロジェクトが相次いで公表された。
ドイツとオランダ、デンマーク、スペイン、イギリスでは、すでに国家目標を超える規模に達したという。
EUは3月、エンジン車の新車販売を35年から禁止するとしていた方針を転換し、水素を使った「合成燃料」の使用を条件に販売継続を認めることで合意した。これにより、水素の利用に弾みがつく可能性がある。

米国は大規模減税を実施 中国も発展計画を策定
米バイデン政権も、水素の生産コストを低減させる施策を講じ、「水素大国」としての地位を固めようとしている。
昨年8月に成立したインフレ抑制法(IRA)では、再エネの普及策などとともに、水素の製造と投資に対する大規模な減税策を打ち出した。設備稼働から10年間、水素1㎏当たり最大3ドルの税額控除か、投資額の最大30%の税額控除のいずれかを選択できる制度だ。このほか、生産拠点の整備に80億ドル以上を投じるという。
こうしたさまざまな取り組みにより、コスト高が障壁となっていた水素業界に「革新的な変化」がもたらされるだろうと、米金融大手ゴールドマン・サックスは評価した。
米エネルギー省は、水素の価格が十分に低下した場合、30年に1000万t、50年には5000万tにまで需要が積み上がると試算している。
民間企業では、エクソンモービルがテキサス州での大規模な水素製造施設の建設計画を進めている。産業ガス事業などを手掛けるリンデとBPも、テキサス州においてブルー水素製造で連携する方針を発表した。水素活用を大きなビジネスチャンスと捉え、一段と投資が活発化している。
中国の動きも見逃せない。昨年3月に中央政府として水素産業の発展計画を初めて公表した。25年までにFCVの保有台数を5万台、グリーン水素の製造で年間10~20万tとの目標を盛り込んでいる。すでに北京や上海などで、水素産業のサプライチェーンを構築する動きも出ているという。
中国は現在、年間3300万tを使用する世界最大の水素需要国だ。世界需要の3割を占めているが、そのほとんどは化石燃料から製造されている。ただ、今後は中国国内での再エネによるグリーン水素の製造拡大が見込まれており、国際エネルギー機関(IEA)は、中国の水素製造量は、60年に約9000万tに達すると予測している。
日本の産業競争力を左右 官民の実行力が問われる
こうした海外勢の動きに対して、日本はどのように対抗していくのか―。
政府は、水素の国内供給量を現在の200万tから、40年に6倍の1200万t程度まで拡大することを目指すという。今後15年間で官民合わせて計15兆円を投資する計画も示している。数値目標を提示することで、水素関連産業への民間企業の参入を促す狙いがあるのだろう。
具体策としては、石炭や天然ガスの市場価格との差額を補助する制度を創設し、水素価格を現在の3分の1程度に引き下げたい考えだ。水素コンビナートなどの整備も検討しているという。
政府がこれまでに示した施策の方向性は妥当だといえるが、気掛かりな点もある。
水素製造において、海外に比べ、大規模プロジェクトの組成が遅れていることだ。水素は水を電気分解して取り出せる。日本は福島県内などで、10MW級の水電解装置の実証実験を行ってきたが、海外では、数百MW級以上の大規模な水電解プロジェクトが進行中だという。
それでも、日本勢は次世代の水電解装置や革新的な部材の開発などで、優位性を保っているとされる。だが、それに安心せず、日本勢が持つ強みを統合する形で、野心的なプロジェクトを進めてもらいたい。
水素の普及は、CN実現への手段にとどまらない。世界に先駆けて水素社会を実現できれば、資源のない日本にとってはエネルギー安全保障の強化につながる。さらに、成長が見込まれる水素関連市場で主導権を握り、日本の産業競争力を大きく向上させることにもなるだろう。
日本の官民を挙げた実行力が問われている。