【メディア論評/12月27日】阪神・淡路大震災30年 元都市ガス業界在籍者として記憶を辿る

2025年1月15日

◆復旧対応時の記憶

1.中央省庁対応

筆者は当時、東京での中央省庁対応から総合企画部に戻り、ガス事業法改正対応や地方ガス事業者の天然ガス導入支援などの業務に携わっていた。大震災発生後しばらくして本社の対策本部の中に中央省庁対応班という担当ができ、本来業務に加えてこれにも携わることになった。当時の通商産業省は、橋本龍太郎大臣の「電力やガス事業者が困っていることがあれば、支援するように」という指示が事務方にも伝わっており、その分、進捗状況などについての情報も求められた。しかし、ガス事業法の規制下、大阪においては、そうした姿勢を要するに“素直に受け取れない”人たちもいた。このため、東京支社とともに中央とのコミュニケーションを高める役割の一端を担うことになった。ところで、橋本龍太郎大臣による支援について、大阪ガス社史の中に次のような記述がある。〈被災地の視察に訪れた橋本龍太郎通商産業大臣が体育館などに仮泊している(大阪ガスの協力会社である)ガスグループおよび当社の復旧要員の健康を案じられ、運輸省を通じて船舶会社に働きかけてくださった結果、数隻の大型船を宿泊船として利用させていただくことができた。〉

これについて少し付言しておくと、上記内閣府資料にもあるように、交通渋滞、水と泥、家屋倒壊などが現場の復旧作業の効率を悪くしていた。当時、神戸港の突堤で使用可能なものがあり、作業環境向上のため、宿泊できる船舶の停泊のための利用を願っても“民間企業”には使わせてもらえなかった。この件について元運輸大臣でもあった橋本大臣のご配慮で、クルーズ船も含めて用意していただいた。この宿泊施設への配慮は現場においても喜ばれた。なお筆者は大震災の2年後、領木新一郎社長の秘書となっていたが、後年、ある海外要人のパーティで、同氏は橋本氏から「復興は順調ですか」と声をかけていただいたと述べていたのを記憶している。

2.ガス業界からの復旧応援

ガス業界では、阪神・淡路大震災以前においても、1959年の伊勢台風、64年の新潟地震、78年の宮城県沖地震、82年の長崎大水害、93年の釧路沖地震などに際して復旧応援体制がとられていた。

参考= 阪神・淡路大震災以降においても、2004年の新潟県中越地震、11年の東日本大震災、16年の熊本地震、18年の大阪北部地震などで応援体制がとられている。 

電力業界でもそうであろうが、そこでは同じ公益事業を営む事業者において形成されてきた一体感が発現するといえよう。大震災発生の翌日、筆者は以前からの業務の件で仙台市ガス局の次長と話をする機会があった。 その中で「いまガス協会から復旧応援の要請が来ました。宮城県沖地震で応援をいただいたお返しがやっとできます。早速準備に取りかかります」と言っていただいた。それから26年後の11年、東日本大震災が発生、仙台市ガス局への復旧応援が必要となった。当時は東京ガスが関東地区の復旧に対応するため、当初は大阪ガス、東邦ガスなどの事業者で応援体制がとられた。復旧対策隊長として現地に赴くことになった大阪ガスの部長は、阪神・淡路大震災の復旧業務の経験者であった。大阪ガス隊の出陣式でメディアのインタビューに「阪神大震災のご恩返し」と決意を述べた。広報が振り付けたわけでない自然の気持ちの発露はメディアに受け入れられ、以降、多くのニュースの機会で使われることになった。(当時、筆者はそうした振付に思いも及ばなかった広報部長であった。)ところで、大震災発生後1カ月ほどした頃、副社長のお一人が筆者の席に来られた。「この復旧応援が終わったら、応援に来てもらった各社の社員・工事会社の人にお礼の品を送りたい。お前、今から考えておけ」と指示を賜った。この未曽有の大災害での過酷な応援勤務に来られた人にとにかくお礼をしたい、これも当時の苦闘する大阪ガス内の雰囲気を表していたとも言えよう。(応援業務完了後、役員が手分けして全国のガス事業者にお礼のための訪問も行った)さて、副社長の指示は1回でも来られた人にお礼をするというもの。最も来ていただいた時の応援人数は3700名強だが、では3カ月弱に及ぶ応援勤務を各社はどれくらいのサイクルで回されたのか。大手から地方ガスまで何社かにヒアリングすると、4サイクルで回したところから地方ガスでは2サイクルの事業者もあった。慣れない他地域での、しかも厳しい環境下での応援勤務を長期間続けていただいたことに改めて頭の下がる思いであった。

3.工事会社、サービスショップなどのガスグループ

都市ガス事業者には、外管や内管の工事会社、ガスの開閉栓、機器販売・修繕などを行う代理店(大阪ガスではサービスショップ)など、日常の事業遂行を進める上で不可欠なガスグループと言われる協力会社群が存在する。大震災においては、全国のガス事業者の支援とともに、こうした協力会社の多大な貢献なくして復旧業務は成し遂げられなかった。協力会社はそれぞれの業種ごとに協会組織があり、毎年5月から6月にかけて総会が開催される。領木社長は、大震災3年後の社長退任時、これら協力会社の総会に出席して改めて大震災での協力について深い謝意を述べた。

◆復興業務

「大震災による甚大なガス設備の被害は経営にどれほどの影響を与えたか。 大阪ガス社史は次のように述べる。〈大阪ガスは、阪神大震災によって大きな痛手を受けた。そして、当面の復旧に要した費用約430億円を特別損失として計上したため、1994年度の決算は、通期では終戦直後の46年度以来、48年ぶりの赤字決算となった。しかし、今後とも震災復旧や新たな地震対策のための投資は続くものの、その経営面における影響は3年間で吸収し、97年度には平常状態に復帰することをめざし、経営計画「リカバリー3計画」を推進〉した。4月11日に一部地域をのぞき復旧作業は完了、4月20日までに不在顧客を除く全てのガス供給を再開し、その後は引き続き兵庫地区の震災復興に向けて都市ガス事業者としての役割を果たすこととなった。有本雄美常務マーケティング本部長(のち副社長)が兵庫復興本部長(のち兵庫事業本部長)に就任した。新年1月1日に発行された業界紙・ガスエネルギー新聞では、大坪信剛編集長「新年を迎えて 阪神大震災30年と教訓」と題して年頭所感を著しており、その中で有本氏への取材に基づき当時の状況を紹介している。有本氏、大坪編集長のご了解を得て、同紙と重なるがその内容を紹介させていただきたい。

◎有本雄美元大阪ガス副社長阪神淡路大震災30年 兵庫復興本部長の経験〉

〇兵庫復興本部長拝命

4月11日に復旧宣言が出された直後、兵庫復興本部長を拝命した。その時の領木 新一郎 社長の指示は次のとおりだった。

(1)第二次災害を絶対引き起こしてはならないもし引き起こせば復旧したことにならず、復旧宣言が嘘になる

(2)住宅やビルが建設されていく中で、空調をはじめとする機器販売において電化に負けてはならない遅れを取るならば、大阪ガスのみならず、全国のガス事業者全体の命運にかかわる

(3)(当時計画されており、他地区に先がけて発足する)新しい組織、地域本部制を成功させよ

(1)(2)の指示は過酷という以外ない指示だった。(1)については、未だにガス漏れが続いていた。爆発事故につながる恐れが残っていた。(2)については電気にくらべ復旧が遅れたガスに対するイメージダウンが強かった。さらに(赴任後の話になるが)仮設住宅や戸建ての建設が急ピッチで進み、大阪ガスの工事対応能力をはるかに上回った。

〇対応の結果

(1)第二次災害を引き起こさない

第二次災害は幸い起こらなかった。対策としては巡回を欠かさなかったこと以外ないので、幸運以外の何物でもなかったが、しかし以下に述べる事態が決定的な意味を持っていたと考える。すなわち、ガス漏れによる災害の恐れは、屋外ではなく屋内にあるが、地震の揺れが来た時ガスをメーターでストップし、屋内に入れない機能つきメーター(マイコンメーター)の取り付けが神戸地区では70%まで進み、大阪ガス管内では最も進捗していた。これが大いに有効であった。つまり屋内でのガスの漏れが最小限に留まったことが、大事を防いだ理由の一つと考える。

(2)電化に負けない

ガスは危険で万一の場合の復旧の遅れについて懸念する相手を説得できた一番の武器は、溶接鋼管がこの大地震の中で、壊れることなく機能を失わなかったことである。殊に橋桁に架かっていた鋼管が、つぶれた橋桁に曲がったままぶらさがりながら生きている光景は感動ものだった。次回再び地震が来ても、鋼管とPE管によって大丈夫という説得が功を奏した。また、全国から駆け付けてくれたガス会社の日夜の奮闘は、復旧していくにつれ、当初はガスの復旧の遅さにいらだっていた住民の心を射止め、「がんばれ」「ありがとう」という声援の声に変わっていった。お客様の気持ちがわれわれに傾いていったのも大きかった。一方、仮設住宅と新築住宅の建設は急を極めた。復旧工事は道路中心の外管工事、復興工事は家屋中心の内管工事という違いはあれ、工事会社は同じである。ガス工事が復興のスピードに追いつかない。復旧応援の直後であったが、東京ガスに工事会社の再度の応援をお願いに行った。結果はハウスメーカーから感謝状をいただくという成果を挙げた。

〇振り返って

兵庫での全国のガス事業者の協力体制は、その後の各地における地震被害の救援にも当たり前のように引き継がれた。しかもそれは、仲間を助けるという意識以上に、被災された人々に思いを馳せた行動になっていた。被災された人々にとって、温かい食べ物と風呂は一瞬ではあれ、癒しと活力を取り戻す原動力であった。阪神・淡路大地震の経験はそのことを教えてくれた。都市ガス事業は地域の人々と共にある意義ある仕事だった。そのことを知ったことがガス事業者にとって最重要な教訓ではなかったか。また接手鋳鉄管からPE管への転換を急がせ、結果、ガス事業が災害に強いエネルギー産業であるとの自信を得させてくれた。各社ばらばらだった施設の仕様が統一される契機になったことも、天然ガスへの統一とともに大きな転換点になった。

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