【コラム/5月13日】EUの炭素関税に過剰反応 排出量取引に潜む日本製造業の崩壊リスク
杉山大志/キヤノングローバル戦略研究所研究主幹
「EUの炭素国境調整メカニズム(CBAM)が始まるので、日本も排出量取引制度を本格導入しなければならない」。経済産業省が示したGX-ETS(国内排出量取引制度、以下単にETS)の説明会では、こうした論法が繰り返し語られた。しかし、果たして本当にそれだけの必要性があるのだろうか。
まずはCBAMの対象となる素材産業の輸出構造を確認しよう。2024年、EUが輸入した日本製鉄鋼はわずか約220万t。金額にして13億ユーロ、円換算して約2000億円弱だ。日本鉄鋼業界(高炉・特殊鋼)の出荷額は24兆円規模なので、EU向けのシェアは0.8%にすぎない。セメントに至っては700万ドル、0.08%と誤差の範囲内だ。一方、化学品はやや多いものの、それでも3.8%にとどまる。



図=日本の素材産業の出荷額におけるシェア。EUはいずれもわずかである。
EUが求めるCBAMは、輸入品の製造段階で排出されたCO2に、EU排出権取引制度(EU-ETS)の相場を掛けた金額を上乗せする仕組みだ。現行価格は1t当たり80ユーロ前後。日本からEUへ輸出する鉄鋼の場合、排出係数は1t当たり1.9t・CO2で計算すると、1t当たりの追加負担は約150ユーロ。年間排出量では420万t・CO2に相当し、総コストは3億3000万ユーロ、約540億円となる。セメント分はさらに桁が下がるので無視できる水準だ。
一方、政府が検討するETSは国内生産全量を対象とする。有償オークションが本格化した後の参照価格を1t当たり50ユーロ(約8000円)と置けば、国内鉄鋼が排出するCO2は1億8400万t、セメントが3200万tで、合計2億1600万t。単純掛け算で年間 1兆5000億円の負担になる。CBAMで課され得る最大限の金額である540億円と比べると、約30倍である。 さらに問題なのは、EU側が控除を認めるのは「実際に支払った炭素コスト」だけという点だ。日本案は初期段階で排出枠を大量に無償配分する設計であり、その分は控除対象にならない。そうするとETSを導入してもCBAM負担はほぼ残ったまま、国内にだけ新たなコストがのしかかることになる。
CBAMは「炭素ダンピング」 EUより米国見た政策を
素材産業の利益構造にも目を向けてみよう。日鉄、JFE、神戸製鋼の3社合算で24年度の営業利益は1.2兆円。セメント大手は600億円、基礎化学は1.3兆円だった。ここから算出したEU起因の利益の寄与額は、鉄鋼で0.8%、セメントで0.02%、化学で3%前後にすぎない。このEU起因の利益を守るためにETSでオークションなどを導入すれば、企業全体の利益の半分以上が吹き飛んでしまう。
EU市場の売上シェアが1%であるにもかかわらず、日本全体に高額な炭素価格を上乗せする──。これでは費用と便益が釣り合わず、競争力を弱めるだけである。CBAMへの「過剰反応」は産業基盤をむしばむことになる。
そもそもCBAMは、EU域内で上がり続ける排出権価格との差額で域外製品を「炭素ダンピング」とみなし、域内業者の競争条件を守る制度だ。EUから見れば一応の理屈はあるが、対象国側にすれば関税と同じ保護措置である。しかも鉄鋼、アルミ、セメント、肥料、電気の5品目に当面絞ったのは、域内で過剰設備と雇用問題を抱えるセクターばかりだ。つまり環境政策というより産業政策色が濃い。
日本の鉄鋼会社については、「EU向け輸出は高付加価値の自動車鋼板が中心で、追加の炭素コストも値上げで吸収できる」という声も聞かれる。背景には欧州メーカーが要求する品質と納期を同時に満たせる企業が限られるという現実がある、ということだ。となれば、EU市場を守るために国内の企業に横並びで事実上の課税をする発想は、ますます割に合わない。
むしろ忘れてはならないのが第三市場の存在だ。日本の鋼材の輸出先は東南アジアで4割、北米で2割、残りを中東・豪州などが占める。これら地域がカーボンプライスを導入する動きは限定的で、むしろ安価な製品を求める傾向が圧倒的に強い。もし日本国内で炭素コストが膨らめば、日本製品は韓国や中国、そしてインドの製品に置き換えられるだけだ。こうして日本から海外に排出が移転するだけの「カーボンリーケージ」が起きて、世界規模での排出削減は全く進まないまま、ただ日本の国富と雇用が流出するという、皮肉な結果になりかねない。
そして日本政府が気にするべきは、実はEUではなく米国だ。トランプ政権が率いる米国は、炭素強度などにはお構いなしに、国内での投資と雇用の創出を重視する。米国はEUと足並みをそろえることなどありえない。ETSなど導入すれば、日本企業は、ますます生産活動を北米にシフトする誘惑に駆られることになる。CBAM対策などよりも、ETSによる日本国内投資環境の劣化の方が、はるかに深刻な競争力問題となることは必定だ。
EUはこれまでしばしば「ブリュッセル効果」を発揮してきた。それはすなわち、EUが先行して環境安全規制を整備することで、諸国政府および世界の企業に影響を与え、追随を余儀なくする、というものだった。しかし、EUの経済力の低下や、EU規制の極端な突出に起因して、その威力は鈍る一方であり、EUのみの規制に終わるものも多い。使い捨てのストローやカトラリーはEUでは禁止だが他の国は追随していない。ネオニコチノイド系農薬もEUでは禁止だが米国や南米などでは広範に使用されている。遺伝子組み換え作物(GMO)についてはEUでは厳しく規制しているが米国では普通に生産され流通している。
そしてCO2については、米国は完全にEUとは別の路線を進んでいる。またBRICSは24年のカザン共同宣言で名指しで非難するなど、団結してCBAMにも猛反対している。CO2についてはブリュッセル効果は発生していない。
ますます多極化する国際秩序の中で、ブリュッセルのCBAMへの対抗としてETSを導入するという政策は、過剰適応であり、費用対便益のバランスを著しく欠いている。日本企業は、多極化する世界市場に対応して、比較的売り上げの小さいEUにおいては現地仕様の製品を生産・供給するなど、柔軟な戦略を取っている。日本政府はETSの導入を取りやめ、日本の製造業ひいては経済全体にとって有益な政策は何かをゼロから再考すべきである。
【プロフィール】1991年東京大学理学部卒。93年同大学院工学研究科物理工学修了後、電力中央研究所入所。電中研上席研究員などを経て、2017年キヤノングローバル戦略研究所入所。19年から現職。慶應義塾大学大学院特任教授も務める。近著に『データが語る気候変動問題のホントとウソ』(電気書院)。最近はYouTube「杉山大志_キヤノングローバル戦略研究所」での情報発信にも力を入れる。