【書評/8月6日】80年前のエネルギー危機 技術者はどう立ち向かったか
◆7000人の石油関係者、2000人が戦没
ところが戦況の悪化につれて日本海軍の船舶護衛の不備によりタンカーが次々と撃沈された。制空権も奪われ、昭和19年後半からは原油が日本にほぼ搬出できなくなってしまう。こうした「油断」が、戦力の低下、そして敗戦の一因になった。パレンバンでは採掘した石油を搬送できず、一部で燃やす処置も行われたという。
パレンバンも空襲、スパイの破壊活動などに直面。日本の降伏後は、技術者らはインドネシア独立戦争に巻き込まれ、現地民からの襲撃、また復帰したオランダ軍による戦犯、抑留など、さまざまな被害、そして苦難に遭ってしまう。
パレンバンにいた人たちが直面した戦闘は、それでも少なかった。南方で徴用された民間の石油技術者、関係者は約7000人。しかし移動の際に輸送船の撃沈にあったり、ニューギニアやビルマでは戦闘に巻き込まれる例もあったりした。戦後も抑留での待遇の悪さなどで病気や死亡することがあった。その7000人のうち、約2000人が外地で亡くなったという。戦争中、軍人らは民間人を下に見て理不尽な命令を出す者も多かった。さらに戦後は軍人には恩給が支払われたが、徴用された民間人への補償は少なかった。
1941年の日米の国内での石油産出量は1対300。その差を埋められるわけがないという恐怖を抱えながら、石油技術者たちはできることをやった。戦争遂行に不可欠な仕事を、厳しい条件の下で最善を尽くして行った。その努力に、後世を生きる私たちは、当時戦った軍人たちと同じように、深い敬意を捧げたい。
◆辛い経験は戦後復興に役立つ
この本では執筆当時は存命だった、実際に苦しい経験をした技術者たちの生の声を収録している。田尻啓氏(のち三菱石油常務)は、無実なのに戦犯容疑で抑留されて強制労働を英軍にさせられ、1947年に帰国した。佐世保に上陸後、米軍の管理地域にいた時に食事のおかずだったたくあんを数年ぶりに噛んだ。その際に、日本に戻ったことの喜びと、そして南の地で死んだ人々の思い出が同時に湧き上がり、涙したという。
ただし、すべてが無駄ではなかった。パレンバン油田の運用責任者に30代で抜擢された三菱石油の玉置明善氏は千代田化工建設の第二代社長になる。同社は戦後の1948年に三菱石油(現ENEOS)の工事部門が独立してできた会社で、現在も世界トップクラスの工場建設会社として躍進中だ。玉置氏は、戦前の米国への技術留学の経験、パレンバンでの米国、欧州製の機器や技術の運用と研究を戦後まとめ、それが同社の技術の基礎になった。
また戦後の石油業界は、外地で苦労した技術者の絆が産官学の間に残り、復興や各社の発展に役立った。技術者たちがこの経験を無駄にしなかったことが、この悲しい物語の唯一の救いだ。そしてこの本では著者の石井正紀氏は、この千代田化工の技術者出身だ。
◆戦後80年に石油とエネルギーを考え直す意味
今の日本も海外からの「油断」によって、いつでも日本の経済・社会活動が止まりかねない。
専門家や現場からの警告にも関わらず、その脆弱なエネルギー供給体制が、放置されたままになっている。政治家や政府は積極的に自給率確保の対策に動かない。原子力発電の活用は遅れ、石炭使用を抑制し、LNGの発電での依存を高めている。ここ数年のエネルギー価格の上昇では、ガソリン価格抑制などのための補助金をばら撒き、財政を痛めながら問題を先送りしただけだ。
80年前の日本は、専門家の声や現実を無視して太平洋戦争に突き進んだ結果、敗戦の大破局に陥った。エネルギーからみた敗戦の状況をこの本で振り返りながら、今の日本のエネルギー面からの危険を考えることが、今こそ必要だ。
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