故幕田圭一氏を偲んで

2022年1月16日

【追悼】

東北電力の社長、会長を務めた幕田圭一氏が逝去された。

燃料の多様化を図り、安定供給に心血を注いだ。

自他ともに認める東北人。ダンディーな面も兼ね備えていた

東北の繁栄に生涯を尽くす 「孫子」を指南役に産油国と交渉

 言葉の端にかすかに残る訛りと、人との付き合いを大事に丁寧を尽くす幕田圭一氏の語り口調は、「典型的な東北人」を思わせ、一方で音楽を愛し、ダンディを感じさせる所作からは、若いころ東京支社で仕えた国際肌の実業家、東北電力初代会長の白洲次郎氏に通じるものを想起させる。生地が伊達政宗の重臣が拓いた城下町宮城県白石市、そこをたどれば「伊達者」との人物表現も出てこよう。

1935年生まれ、福島大学経済学部を卒業し58年東北電力に入社した。「東京でなく東北で働きたい。日本のためになる仕事を」(『週刊ダイヤモンド』2002年6月15日付)と考えていた幕田氏にとって電力再編成後「日本の復興は東北から、東北の復興は電力から」をスローガンにしていた同社の入社に迷いはなかったろう。人生の大半を同社と需要家を結ぶ東北地域の発展に捧げた。

幕田氏が社長、会長になるまでの経歴は、二つに集約される。燃料部門と東京支社であり、いずれも同社の弱みの補強と密接に関わる。同社は高度成長期「火主水従」路線への転換が遅れ、1962年の料金値上げが進出企業の反発を呼び、政治問題化した苦い歴史を持つ。以来政・官の中心地東京での情報収集や人脈づくりは重要命題となり、電気事業連合会調査部への出向、支社の次長、副支社長、支社長を含め13年間東京で過ごした。「よく江戸づめという言葉を使っていて、その通りの行動でした」と当時の部下は語る。

第一次石油ショック直後の75年、新設された燃料部の副調査役に着任すると当時燃料部長の明間輝行部長(元社長・会長)とLNGなどを求め二人三脚で世界各地を飛び回った。インドネシアとの契約交渉や海外炭の導入など数ある功績の中でも特筆されるのは、石油資源開発との新潟―仙台間の天然ガスパイプライン共同事業だろう。ほぼ東北全域にパイプラインは延伸され、企業誘致の促進剤となった。何よりも東日本大震災の折には、仙台圏のライフラインの確保と早期復旧に貢献した。

その大震災では、幕田氏が手塩にかけて育てた「仙台フィルハーモニー」が、復興コンサートとして被災者や被災地域に直接音楽を届けた。「お寺の境内でもミニコンサートが開かれ、幕田氏は私財を費やし支援していた」という。

座右の書とした「孫子」は、資源国との交渉の指南役とした。「相手の立場になって考え、一歩先を読んで準備する」。備えと互いの利益を追求する方針は、幅広い人脈をベースに幕田経営の根幹となり、安定供給につながっていった。

21年11月28日、心不全のため86歳で逝去。家族の相次ぐ不幸にも見舞われたが、人への温かみを終生失わなかった。

文|中井修一 (元電気新聞編集局長)