【私の経営論】比嘉直人/ネクステムズ社長
「会社辞めます……すみません」今から5年前の2016年1月、20年間勤めてきた沖縄電力グループの沖縄エネテックを退職する決心をした時の風景が蘇る。
当時、私は同社エネルギー開発部のグループ長で火力発電、内燃力発電、太陽光発電、風力発電、バイオマス発電、水力発電、海外事業など数多くのプロジェクトのほとんどを牽引していたので、光栄にも社内外から遺留する声も多かった。当時の社長は怒り心頭。部下は不安そうな面持ちだった。私がポジティブな理由で退職することを説明すると、安心した表情で少し首をかしげながら「頑張って。応援している」と一様に半信半疑な様子。あらかじめ分かっていた反応だった。だから退職の道を選ばなければならなかった。
選んだ新天地は宮古島市島嶼型スマートコミュニティ実証事業を担うベンチャー企業。需要設備を直接制御することは当時の電力業界では全く理解を得ていなかったが、私はいずれ必要となると考えていた。
増エネと進まぬ省エネ 不確実なDRで五里霧中
11年度から開始した沖縄県予算の実証事業の委託先は宮古島市。島内の住宅200世帯、事業所25カ所、農業ポンプ場19カ所の全てをリアルタイムに電力計測して、エネルギーの見える化を行い、省エネやデマンドレスポンス(DR)の有効性を検証する事業だった。エネルギーマネジメントシステム(EMS)の実現を目指すもので、監視している需要は島内2割程度に匹敵する。当時、同様の実証事業は全国で実施され、いわば流行だった。大きな違いは、県予算を活用する見返りとして必ず事業化すること。そして、それは実証事業に関わる全員が重い十字架を背負うことを意味していた。
運開直後は意気揚々と完成したEMSの性能を楽しんでいたが、月日を重ねるごとに省エネが全く進まない状態に陥った。実態調査の結果、家庭ではモニターを見ておらず、事業所でも観光客がもたらす売り上げ増で省エネを優先してくれない。ピークカットのアラートも煩わしいとの理由で停止され、DRは毎回1割程度が関の山。逆に増エネになる場合や急に3割が反応する場合もあり、その不確実性があらわになっていた。この状況での収入見込みは年間500万円。必要経費は人件費を含まず年間1億円という評価結果。いかにして事業化ができるか、暗く長いトンネルだった。
沖縄エネテックの社員として、このEMSの有効性評価に携わっていたが、これ以上は無理に感じて市職員に進言した。「人々は快適性や暮らしの豊かさを求めているので省エネは優先されない。特に光熱費に困っているものでもない。事業所は売上増が優先される。つまり、コミュニティーが優先的に望むものではない機能の商売では無理がある」「事業化はできないが、ほかの事業者が同じ状態に陥らないように反省点を全国に発信して、それを成果としよう」。市職員はジッと考えて「それはそれで良いけど、宮古島の未来がない」と呟き長い沈黙が続く。
これまで多難を乗り越えてきた自負もあるが着地点が見えない。「島の未来のために覚悟があるのであれば、ステージとギアを上げる必要があります。予算を獲得して事業を延長することはできますか?」。市職員は「すぐに調整に入りたい。どのような内容にするか」と即答。「確実性がないのが問題なので需要設備を直接遠隔で監視制御できる技術を実現する必要があります。しかし、これは大きな挑戦になります」。気付けば大きな苦労を拾ってしまった。
その後、市職員の熱意で予算化はトントン拍子に進み、新たな事業コンセプトが必要となった。
離島の赤字額は数十億円 需給設備を面的制御
この頃、私は初めて「グリッドパリティー」という言葉を知った。再生可能エネルギー、とりわけ太陽光の発電単価が電気料金と同等以下になること。信じがたかった。「リアルタイムプライシング」という言葉も知った。この二つが重なると夕方のダックカーブ発生時に電気料金がマイナスになる現象が予測されていることも知った。従来の再エネ導入手法を見直さなければ、きっと誰も幸せになれない。そのように感じていた。
a ネクステムズが考えている将来望まれる供給モデルのコンセプト
一方、宮古島を含む沖縄離島の電気料金はユニバーサル制度で守られているため、実は供給赤字であり、赤字額は年間数十億円になる。電力自由化で制度が危ぶまれることになれば、離島での暮らしは危機に晒される。
このような背景があったことから、事業コンセプトは「社会コスト低減」「需要家メリット最大化」「電力供給コスト低減」「再エネ主力電源化」の四つに決まった。その内容は今後の再エネ大量普及を見据えて、遠隔から監視制御可能な需要設備(可制御負荷)を大量に普及させ、それを地域で面的に群制御することとした。しかし、これは大きな社会変革を与えることになり、痛みも伴う業界も出る。そのため、利益主義に走らず、社会貢献を貫く、責任ある事業会社の設立がやはり必要であった。
新たな事業計画を携え、実証事業を見守る有識者の先生方に説明している際に「これは比嘉さんがやるしかないでしょう」と言われ、普段は即答で「ないない」と答えてきたが、提案者としての重責を感じ無言となっていた。帰り道で市職員が「比嘉さん、先ほど断らなかったですね」ときたので「実は考えています」と答えた。
その日、「宮古島のために会社を辞めて、新会社をつくろうかと思うけど」と打ち明けられた妻は間髪入れずに「ん? いつ引っ越すの?」と笑顔で言った。
こうして新たなベンチャー企業は小さな船で荒波の中に出航した。
1995年琉球大工卒。沖縄電力グループの沖縄エネテックに入社。宮古島メガソーラーの導入を手掛ける。宮古島スマートコミュニティ実証に奔走しながら、現在は、ネクステムズや宮古島未来エネルギーの代表を務める。