
挫折を乗り越え弁護士となり、子どもの頃から目指した政治の道へ。
「地方の一市民」としての視点を忘れず、経済産業副大臣として実務に当たる。
群馬県伊勢崎市生まれ。父は県庁職員、母は小学校教師という一般的な家庭で育った。地元の公立小学校・中学校を卒業。生徒会長を務めるほどではなかったが、明るい性格で学級委員長を任され、いじめを見過ごせない正義感を持つ子どもだった。ただ、その後の学生生活では挫折を繰り返すことになる。
高校受験では第一志望の公立高校に不合格となり、私立の東京農業大学第二高校へ進学。真面目な優等生タイプではなかったが、帰宅部でアルバイトをしたり、女の子とデートをしたり、普通の高校生活を楽しんでいた。ただ、大学受験の勉強は苦痛で仕方がなく、うっぷんが溜まっていった。世の中には裕福な家庭に生まれ、エスカレーター式に有名私立大学に入れる人がいる。不平等ではないか─。「誰もが平等に挑戦でき、努力が報われる社会をつくりたい」と考えるようになり、漠然と政治家を志すようになった。
しかし、どうやって政治家になるかは分からず、まずは弁護士を目指すと決めた。「東京大学などの難関大学は現実的ではないが、弁護士なら学歴への負い目もなく、選挙に落ちても無職にはならないと考えた」。一浪して明治大学に入学した。
1年生の頃は学生生活を楽しんだが、2年生から司法試験の勉強に打ち込んだ。1日10時間以上、気が狂いそうになるほど勉強し、「長くは続けられない。早く受かるしかない」と自分を追い込んだ。それでも、勉強の楽しさは感じられるようになった。「法律の勉強は社会の紛争をどう解決するか、という実学だ。数学などと比べるとよっぽど面白かった」。3回目の受験で司法試験に合格する。その後、弁護士として札幌で1年半、高崎で1年半の修業を積んだ。
エリートではない強み お手製の「読書ファイル」
30歳を前に群馬県議会議員選挙への出馬を考え、親戚に相談したところ、親戚の知人である伊勢崎市議から後継指名を受けた。30歳で市議会議員選挙に初当選し、政治家人生のスタートを切った。
2年後、衆議院議員選挙への挑戦が巡ってきた。伊勢崎市や桐生市などを含む群馬2区は、自民党の総務会長などを歴任した重鎮・笹川堯氏の地盤だ。ところが、同氏は政権交代が実現した2009年の衆院選で落選し、党は新たな候補者を探していた。すると伊勢崎市議の実力者が井野氏を推し、公募で支部長に選出。12年の衆院選で初当選を果たした。その後、法務大臣政務官、防衛副大臣などを歴任し、現在は経済産業副大臣を務める。
政治家一家や経営者の息子ではない。キャリア官僚でもなく、受験では何度も失敗した。ここまで、決して「エリート」とは言えない道のりだった。ただ、今となってはその歩みこそ自分の強みだと確信している。「自分はどこにでもいる地方の一市民。挫折や迷いを経験してきたからこそ、人の悩みや弱さを肌感覚で理解できる。永田町では貴重な存在だ」と自負する。
エネルギー政策では、原子力の活用を強く訴える。「福島第一原子力発電所のような事故は二度と起こしてはならない。しかし、事故があったからといって、日本が積み上げてきた技術や設備を手放す必要はない。むしろ教訓を生かし、安全でより良い原子力利用を目指すべきだ」。経産副大臣として国際原子力機関(IAEA)総会に出席し、世界が原子力の活用に回帰しつつある潮流をその目で確認してきた。
核燃料サイクルの実現にも熱い思いを持つ。今年、青森県六ヶ所村の再処理工場を視察し、竣工に向けた進ちょくを確認。「サイクルが動き出せば資源の有効活用と廃棄物の低減が進んでいく」とした上で、「高速炉開発にも本格的に取り組まなければならない。高速増殖炉『もんじゅ』は廃炉となったが、実証データは残っており、課題整理が進んだと捉えている。国民に技術や安全性を理解してもらい、国全体で安全な原子力利用を進めるべきだ」と語る。
エネルギー政策以外では、防衛産業の発展と海外展開にも力を入れる。「世界が不安定化する今、日本の技術と平和国家としての歩みに対し、世界は信頼と期待を寄せている」として、防衛装備品の輸出規制見直しにも尽力した。「ドローンなど新しい技術によって戦い方が変わりつつある。防衛産業もスタートアップを活用すべきだ」と経産行政と絡むスタートアップ支援にも積極的だ。
自他ともに認める読書家。メモを取りながら読み進め、読了後は要点や感想をプリントにまとめ、著者ごとにファイリング。議員会館の棚には読了リストがずらりと並ぶ。明るく接しやすい性格と膨大な読書量に裏付けられた国家観─。激動の時代に国策を前進させる力量を備えている。




