
東芝の原子力事業部を経て衆議院議員となり、福島第一原発事故では影で官邸を支えた。
現在は日本維新の会の経済産業部会長として、政権与党の政策を主導する。
1964年、広島県生まれ。幼稚園児の頃から「将来はロケット博士と総理大臣になってノーベル賞を取る」と親戚のおばあさんに豪語していた。この会話は言霊となり、人生の目標へと変わった。
小学生になると『宇宙戦艦ヤマト』のテレビ放送に夢中になった。放射能で滅亡寸前の地球を救うため、ヤマトが14万8000光年彼方のイスカンダル星に放射能除去装置を取りに行く物語だ。そこで「自分も将来は放射能除去装置を作ろう」と誓った。
高校生になり、今後の世界はエネルギーと食料が大きな問題になると考えた。物理が得意だったので、科学者・技術者を目指して早稲田大学理工学部、東京大学大学院原子力工学専攻へと進んだ。「東大の原子力の研究施設は茨城県東海村にあって、高速加速する陽子ビームを使って高速中性子を発生させたり、トリチウム(三重水素)を含んだターゲットにデューテリウム(二重水素)を加速衝突させる核融合実験を行ったりして研究を楽しんでいた」
その後は東芝に入社し、原子力事業部に配属された。「原子炉は『釜の底』まで見ている」と言う通り、沸騰水型原子炉(BWR)の炉内に水中ロボットを入れ、炉底の確認作業などのマネジメントを行った。発電所の寿命延長や保全技術に関する業務、高速増殖炉「常陽」の開発・共同研究といった原子力関係の仕事はほぼ全て携わった。毎年数件の特許明細書の申請も担当した。
30代になると、放射能除去装置開発と並ぶもう一つの夢、総理大臣に向けて動き出した。東芝在籍中の98年、旧自由党の国会議員一般公募に合格。旧自由党は民主党と合併し、2003年と05年の衆院選に民主党公認で出馬した。しかし、内閣官房長官などを歴任した自民党の中川秀直氏に敗れた。その後、3度目の正直で挑んだ09年の衆院選で初当選を果たした。
誕生日に発生した東日本大震災 エネルギー安全保障にこだわる
福島第一原子力発電所事故は国会議員として迎え、〝影武者〟として事態収束に奔走した。当時の菅直人首相は原子力安全委員会に不信感を募らせており、空本氏が官邸直轄の緊急助言チームを組織した。昼夜を問わず、低レベル汚染水の海洋放出とモニタリングの実施、避難者へのニュースレターの発行、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の活用などを官邸経由で東京電力と関係省庁に指示。東日本全滅という「最悪シナリオ」の作成も検討した。「3月11日は私の誕生日で、因縁を感じずにはいられない。放射能除去装置がこの世にあればと心底思った」
現在は日本維新の会の経済産業部会長(兼エネルギー安全保障分科会長)を務め、政策論議をリードする。「石油は国家備蓄などで約1年分を確保しているが、地政学リスクと発電コストが高い。天然ガスはリスク、コストともに低いが、長期貯蔵が難しい。石炭はCO2を多く搬出するが、コストは低く、貯蔵が容易だ」。こう整理した上で、エネルギー自給率を高めるために重視すべき電源について「ベースロード電源として最も期待できるのは原子力。次に高効率で温室効果ガス(GHG)排出を抑制した火力発電、その次に再生可能エネルギー」と分析する。さらに地球規模でGHGを大幅削減するために最も効果的なのは、新興国の石炭火力を日本の優れた火力技術に置き換えることだと訴える。
原子力分野でもリアリズムを追求する。「革新軽水炉の新増設と高速炉の開発・実用化による核燃料サイクルの確立が現実的」として、「どこに立地するか、具体的な青写真を示すべき時にきている」と政策の前進を望む。一方、技術開発は否定しないが、小型炉は分散化による核セキュリティ問題、高温ガス炉は核燃料サイクルの実現性、核融合は事業成立性が課題だとの評価だ。
再エネや新エネルギーについては、「国土が限られる日本でグリーン水素の大量生産は難しい。将来的には『液化グリーン水素』を輸入することになるだろうが、輸送コストが課題。アンモニア専焼は技術的にも経済的にも実用化の可能性は低い。CCS(CO2回収・貯留)も地元合意や経済性の観点で有効なら開発すべきだが、50年カーボンニュートラルには間に合わない」と鋭く切り込む。
地元ではドブ板活動を徹底する。瀬戸内海に面した離島が多い選挙区で、島内を自転車で駆け回る。1日12時間、100㎞以上走る日もあるという。夢のノーベル賞については「あと30年、90歳くらいまで研究に没頭できれば可能性はあるかもしれない。新たな蓄電技術を発明したら間違いない」と笑みを浮かべる。原子力の専門家が連立与党のエネルギー政策を支えているのは心強い。


