
立憲民主党の若手を中心としたグループ「直諫の会」で会長を務め、現実路線を追求。
複数の政党をわたり歩いた経験から、政権交代可能な大きな野党の実現を目指す。
愛知県豊田市生まれ。父親はトヨタ自動車の社員で、政治とは無縁のサラリーマン家庭で育った。県立岡崎高校を卒業後、東京大学法学部へ進学し、法曹志望者が多い第1類(当時)で勉学に励んだ。チームスポーツが好きで、高校から大学までの7年間はラグビー部に所属。就職活動中には民間の金融機関から内定を受けたが、日本銀行の面接を受けた際に「パブリックな仕事がしたい」と思い立ち、進路を変更する。1年の留年を経て国家公務員試験に合格し、1994年に自治省(現総務省)に入省した。
数ある省庁の中で自治省を選んだ理由は二つある。一つは同省職員の「人間臭さ」だ。自治体への出向の機会が多く、地域に寄り添い、人とのつながりを大切にして働く官僚の姿を見て、自分に合っていると感じた。もう一つは、地方分権が進む時代の流れを予感していたこと。実際に入省後、その流れは加速した。2000年には青森県庁へ出向し、市町村振興課長として市町村合併などを担当。「合併は『究極の身を切る改革』だ。地域の将来を憂い決断した当時の首長の英断に胸を打たれた」と思い返す。
政治家としての一歩を踏み出したのは39歳の時だった。11年2月の愛知県知事選を前に、自民党愛知県連から出馬の打診を受けた。
当時の民主党政権下では、行政刷新会議で「事業仕分け」が行われ、官僚たちは与党議員や有識者から責め立てられていた。霞が関の雰囲気は悪化しており、「政治が変わらなければ世の中が良い方向に進まない」という思いを抱く。総務省の仕事にも限界を感じていた。「地方交付税などを交付するだけでは、地域の発展につながらない。愛知県知事になれば、より地域を元気にする仕事ができるのではないか」と出馬を決意した。
ところが、県知事選は保守分裂選挙に。自民党の推薦こそ受けたものの、当時自民党の衆議院議員だった大村秀章氏が河村たかし名古屋市長らを後ろ盾として参戦。100万票近い大差で落選した。「最初の選挙が最大の洗礼だった」。その後、2年近くの浪人時代を送った。
保守分裂のしこりが残る中で、12年の衆院選は自民党ではなく日本維新の会公認で出馬。選挙区では5人中3位だったが、比例復活を果たした。重徳氏と日本維新の会は、共に道州制実現を主張している。「考え方が近い日本維新の会が国政に進出していなければ、愛知県の選挙区から出馬していなかった」と振り返る。
16年3月には民進党の結成に参画したが、翌年の衆院選は希望の党との合流を巡って思わぬ形で「排除」の憂き目に遭うことに。重徳氏は安全保障法制や憲法改正に対するスタンスで小池百合子氏の考え方に近い。にもかかわらず、選挙区のライバル候補と小池氏の関係性などを理由に公認を獲得できなかったのだ。しかし、最終的に無所属での出馬を決断して圧勝した。
政策論争こそ政権政党の本質 現実路線の野田佳彦氏を支持
19年1月には野田佳彦氏らと共に衆議院の新会派「社会保障を立て直す国会議員」を結成。同年10月には超党派の政策グループ「直諫の会」を設立し、会長に就任した。20年には立憲民主党と国民民主党が合流した新「立憲民主党」に入党し、現在に至る。
政治家になって以来、いくつかの政党を渡り歩き、離散集合を経験した。そこで学んだ教訓は「政党は大きくてなくてはならない」ということ。「規模が大きくなるにつれ、党内のウイングは広がる。だが分裂するのではなく、どの路線が党内の主流派になるか政策を競い合うのが政権政党の本質だ」
エネルギー政策では「現実路線」を主張する。国内のエネルギー自給率の向上に重点を置き、脱炭素化に対応するため再生可能エネルギーや新エネルギーの普及を進めていく。一方、原子力については「地震大国の日本が依存度を下げていくのは合理的」としつつも、「経済と国民生活の安定が最重要」と強調。「デジタル化などによる電力需要が増加する中、当面原発は活用する必要がある。原発ゼロは現実を見据えながら中長期的に考えることで、経済や技術の動向を踏まえたスマート・トランジション(賢い移行)が望ましい」。9月の党代表選では、こうした現実路線を共有する野田陣営の事務総長として、寝食を惜しまず奔走した。
趣味は町おこし。官僚時代には小中学校の父親が主体となり、地域でのサポート活動を行う「おやじの会」を設立。学校近くで大豆を育て、豆腐づくり教室などを開催した。
政治家は人々に先んじて時代を憂い、問題が解決してから人々の後でひと息つく──。「先憂後楽」という座右の銘の通り、社会問題の解決に向けて今日も汗を流す。





