
高校卒業後に六ヶ所村役場に就職して以来、59年にわたり役所一筋で働いてきた。
国策に翻ろうされてきた村の歩みを振り返りながらも、将来を見据えた政策に注力する。
青森県六ヶ所村出身。4人兄弟の長男として生まれた。高校は親戚の家に下宿しながら、隣接する野辺地町の野辺地高校に通った。当時は村全体が貧しく、中学校を卒業したら東京に働きに出るのが当たり前だった。大学に進学したかったが、家庭が貧しく断念した。
高校卒業後は六ヶ所村役場に就職。「村を出たい気持ちはあったが、長男としての宿命だったのかな」と述懐する。以来59年間、役場一筋の人生を送ってきた。
今でも「青森県で1番貧しかったのは六ヶ所村だった」と入庁当時を思い出しながら語る。貧しいままの村でいいのだろうか、という思いが役所人生の原点だ。特に交通の不便さには苦しんだ。中高生だった1960年代、野辺地町に行くには朝と夜のバスしかなかった。「村民が時間を有効活用できるように、思い立った時にすぐどこかに行けるような環境を整えたいと思った」
数年経つと、国が六ヶ所村を中心に石油化学コンビナートや製鉄所などを整備する「むつ小川原開発計画」を立ち上げた。反対を表明した当時の村長と賛成する村議の間でリコール合戦に発展するなど、村は割れた。結果的に石油備蓄基地は完成したが、73年の第一次オイルショックの影響で計画はとん挫し、工業用地の多くが売れ残った。「もうあれから45年か……。コンビナート開発のために、村の中心部の土地を売った。当時は〝バラ色の開発〟と言われたものだ」
オイルショック後には、石油に代わるエネルギーの一つとして原子力発電の開発・導入が加速した。そこで六ヶ所村にコンビナートの代わりにやってきたのが、核燃料サイクルの関連施設だった。「むつ小川原開発計画がとん挫して、これからどうしようか考えていた。そんな中で、あれよあれよとサイクル計画が進んでいった。でも村民が建設を認めるか悩んだのは確かだ」
日本原燃の関連施設でしゅん工できずにいるのが、使用済み燃料の再処理工場と酸化化合物(MOX)燃料工場だ。どちらも2011年の東日本大震災前にはしゅん工寸前までこぎ着けたが、震災後は原子力規制委員会の審査が長期化している。
再処理工場のしゅん工は、村に固定資産税などの税収増をもたらす地域振興の根幹だ。
繰り返されるしゅん工延期に、村の計画には狂いが生じている。「施設を受け入れた上で地域振興を進めるというのが村のスタンス。だからサイクル事業を終わらせるという選択肢はない。でも、どうして国の事業はいつも上手くいかないんだと落胆することは多い」と複雑な胸の内を明かす。一方で将来を見据え、「土地を提供した村民の子どもや孫は、今も第一次産業に従事している人が多い。固定資産税を使い、農業のスマート化など彼らの力になる政策を実行したい」と意気込む。




