【書評/8月6日】80年前のエネルギー危機 技術者はどう立ち向かったか

2025年8月6日

日本のエネルギー自給率は22年度で12.6%、日本のエネルギーのホルムズ海峡依存度は23年末で、原油で約87%、LNGで約20%だ。無資源国日本は、外国からエネルギーが輸入されないと国が立ち行かなくなる。そしてエネルギー供給ルートを、他国から攻撃され、戦争に巻き込まれることにとても脆弱だ。

これは昔から変わらない。1941年夏の日本は、米国などから、石油などの戦略物資の禁輸措置を受けた。当時の日本は、石炭をある程度採掘ができたが、石油は9割以上が外国からの輸入だった。この「油断」を一因に、日本は無謀な米国などの連合国との戦争に突き進む。必敗の事前予想を多くの識者がした。それなのに無謀な戦いを挑んだのは、石油がなくなって経済と軍備が崩壊する前に、状況を打開しようしたことが一因とされる。今年2025年は日本が太平洋戦争で敗北してから80年だ。

石油技術者の立場から、太平洋戦争を記した名著がある。『石油技術者たちの太平洋戦争』(光人社NF文庫)だ。1991年の刊行だが、戦後80年を前に復刊され、今も読む価値がある。著名作家の司馬遼太郎氏は、「昭和前期の一角に電灯がついた」と、知られざる話を記録にまとめたこの本を評価したという。

◆パレンバン油田占領、事前準備とその後

この本ではインドネシアのスマトラ島のパレンバン油田の占領のあと、その施設を復旧し、そこで石油採掘と精製を続けた技術者たちの経験を紹介している。

パレンバン油田は、当時、連合国側だったオランダの植民地のスマトラ島にある。日本陸軍は、42年2月に空挺部隊による奇襲でこの油田を占領。落下傘を使う攻撃は新聞・ラジオの報道で華やかなものに映り、空挺部隊の広報映画「空の神兵」と共に国内で喧伝された。同名の歌は、国内でヒットし、今でも著名な軍歌として歌われている。

しかし、その攻撃前の準備とその後のことはあまり知られていない。事前に陸軍は民間人を動員し、想定される火災の消化と停止した石油の採掘・精製プラント再開の準備をしていた。民間から集められた技術者たちは大変な努力で破壊されたプラントを修理し、翌43年初頭には占領前の8割の採掘量まで石油の生産を復旧させた。

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