
自民党総務会長も務めた父・田野瀬良太郎氏の後を継ぎ政治の道を歩む。
文教政策や林業振興による過疎化対策など、幅広い分野でエキスパートを目指す。
政治家としてのキャリアは衆議院当選4回だが、永田町での生活は長い。1993年、父・田野瀬良太郎氏が衆院に初当選。ちょうど早大進学で上京する時期と重なり、議員宿舎で父親と寝食を共にし、秘書を務める。秘書生活は父親が政界を引退するまで、約20年に及んだ。
もっとも、政治との関わりは生まれ育った奈良県五條市での幼少時からだ。名古屋工業大学を出てサラリーマン生活を送っていた良太郎氏は、「故郷を良くしたい」と一念発起。73年、五條市に戻り市会議員に立候補する。以来、良くも悪くも政治は身近な存在だった。
早朝の政務調査会に始まり、議会に出席し地元の陳情を受け付け、役所との交渉やさまざまな打ち合わせを行う―。秘書から見て、国会議員のハードな仕事は想像を超えた。地方政界で苦労を積んだ父親の姿から、もともと距離を置いていた政治の世界。将来、後を継ぐ考えはなく、良太郎氏も進路について言及することはなかった。
だが、秘書として経験を積み、さまざまな人との出会いを重ねるうちに、「これほど人のためになる仕事はない」と思い始める。地元に保育園を開き、後に西大和学園を設立する良太郎氏は教育を重視し、文部科学行政に力を注いだ。一方、日朝国交正常化に力を入れ、日韓議員連盟にも所属するなど隣国との関係構築に功績を遺した。黙々と国と地元のために働いた父親の背中を見て、後継者として出馬の意向を固めるようになる。
世襲批判を跳ね返し初当選 恵まれた環境を生かすために
初の選挙となった2012年衆院選は、民主党政権(当時)の野田佳彦首相が「世襲批判」を展開。しかし50%を超える得票率でトップ当選を果たし、批判を跳ね返している。
「お前が田野瀬さんの息子か」。議員バッジを付け登院すると、こう先輩議員から声を掛けられた。官僚にも顔見知りが多数いる。政治活動のスタートを行う上で恵まれた環境だったが、それはプレッシャーにもなった。「ほかの議員と同じように働いていてはいけない。1.5倍のペースで仕事をしないと、恵まれた環境を生かせられない」。地元に帰り支持者が集う会合に出ると、さまざまな質問や依頼を受ける。「その分野は分かりませんとは答えられない」と、あらゆる政策について把握するため、初当選以来、資料に目を通し専門書のページを開く日々が続いている。
とはいえ、特に力を入れている分野もある。まず少子化対策と文教政策。「急速な人口減少に歯止めをかけなければならないが、それには時間がかかる。その間は教育をより充実させて、一人が1.5~2人分の生産力を持つようにしなければいけない」。良太郎氏が特に注力した教育の分野。そのバトンをしっかり受け継いでいく考えだ。
次に科学技術政策。もともと、ものづくりで経済大国になった日本。成長率が伸び悩む中、科学技術の力で国を発展させるしかない。「宇宙や海洋資源の開発、バイオテクノロジーやナノテクノロジーなど、全般的に技術力を上げなければいけない」。エネルギーでは、発電と水素製造を行える高温ガス炉に期待を寄せる。文部科学大臣政務官としてポーランドを訪問した際は、自ら日本製の高温ガス炉の性能を説明。先方から「共に開発しよう。将来は20基を日本から買いたい」との言葉を引き出した。また、ペロブスカイト太陽光発電などの新技術に注目。国産再エネの実装を目指す議員連盟の事務局長も務める。
森林・林業の振興による過疎化阻止も大切なテーマだ。故郷の奈良県は県土の約8割を山林が占め、選挙区の3区ではその割合が9割程になる。「地方から人が離れるのは仕事がないため。農家林家をつくり、都会の人たちに来てもらいたい」。こう話すが、歯がゆいのは山が大事という国会議員が少ないことだ。山林が「緑のダム」として水源の役割を果たしていること、また貴重なCO2吸収源であることを訴え続けている。
首都機能移転はライフワークにしている。1992年、「国会等の移転に関する法律」が成立。99年には有識者会合が移転先として、栃木・福島、岐阜・愛知、三重・畿央の3地域を選定している。しかし、選定と同時に「誘致合戦」が勃発。移転は事実上、氷漬けの状態にある。
東京、大阪などに若者が集まるのは、地方から人を吸収しているためだ。「これを是正しなければ、地方は荒れ放題になる」。危機感は強く、首都機能の移転を都会への人口集中を止めるシンボルとして捉え、「氷結した法律を電子レンジに入れて、息を吹き返させる」と力を込める。
座右の銘は「為せば成る」。取り組むのは重い課題ばかりだが、父親譲りなのか、絶やさない笑顔に強い自負心がうかがえた。




