
父の急逝をきっかけに、関西電力を退社。市議として政治の世界に飛び込んだ。
大阪都構想議論で注目を集Aめ21年衆院初当選。福島復興や環境問題に尽力する。
父親は元大阪市議会議員の柳本豊氏。叔父は衆議院で法務委員長などを務めた柳本卓治氏と、政治を身近に感じられる立場にあったが、政治家を志したことはなかった。頭にあったのは「日本という国に対して、どう貢献できるか」。就職活動ではインフラなどの基幹産業に対し興味を持ち、大学卒業後は関西電力に入社した。
入社3年目の1999年、本店に異動となった直後、父・豊氏の逝去に伴う大阪市議会の補欠選挙が行われることとなった。「25歳で仕事も後任に引き継ぎを終えたタイミング。さまざまな状況が重なり、運命的なものを感じた」と出馬し、最年少25歳で初当選を果たす。以降、一般企業で培った市民感覚を忘れず、大阪市議会で市民に寄り添った政策提案を行ってきた。
名前が一躍全国で知られるようになったのは、2度にわたる大阪市長選挙だ。1回目となる15年当時、橋下徹大阪市長と大阪都構想で論戦を繰り広げていたが、出身である西成区の特区構想などで「西成を変えることが、大阪・日本を変えることになるという思いは、橋下さんと合致していた」と話す。高度経済成長期の西成区は、日本の労働力を担うエリアであったが、90年代以降は労働産業の構造が変化。まちづくりは大きな転換期を迎えていた。
大阪市の権限や財源を、府に吸収させる大阪都構想には反対したが、一極集中構造から多極分散型の国土構造へ変革を求めるベクトルでは、橋下市政に協調して、西成区だけでなく、大阪全体の都市ブランド力の構築を目指した。
地方行政に関わる中で、国の民営化推進路線への課題も見えてきたという。「新自由主義的な発想ですべて民間に任せることは、行き過ぎた競争をあおることになる」と、インフラの過剰な民間委託で起こり得る生活基盤の破壊に警鐘を鳴らす。大阪市では都構想とともに、水道事業を巡る民営化の議論も行われていたが「命の水に外資企業が入って、本当に市民の生活を守れるのか」と疑問を呈していた。
制度設計や行財政改革という面で俯瞰的に政策を行う国の視点には、地元の視点や現場の状況把握が足りないと話す。「これまで携わってきた地方政治のエッセンスを国政に注入したい」という思いで、21年に衆議院選挙に出馬、初当選を果たした。
行財政改革で過度な集約化を危惧 多極分散型の国土構造変革目指す
22年8月、第2次岸田改造内閣の環境大臣政務官兼内閣府大臣政務官に就任。環境保全分野で、海洋プラスチック問題や循環経済への移行、公害健康被害対策や東日本大震災、福島原発事故からの復興再生に向けた取り組みを担うとともに、原子力規制委員会を所管する。内閣府の政務官も兼務し、原子力防災にも関わる。10月には福島第一原子力発電所を視察した。「想定外も想定しながら、安全対策と復興への住民理解のための信頼関係の構築を進めなければいけない」と決意を新たにする。
原子力の活用に関しては、関電時代に教育を受けた「電力構成のベストミックスのあり方」を重視している。当時と現在で比率は異なるものの、火力と水力と原子力、そして再生可能エネルギーで、それぞれ役割を担うことが重要だと話す。安定的で安価、CO2排出量削減という点で、原子力も一定の役割を持つと期待している。
資源循環、廃棄物行政の面でも大阪での知見を生かしたいと話す。13年当時、大阪市の中で唯一中心部に立地するごみ焼却場「森之宮工場」の老朽化に伴い、建替や廃止の議論があった。紆余曲折の結果、周辺部の焼却工場で分散対応し、現地は別用途で活用する方向となった。「老朽化や余力ある処理場の集約化は、行財政改革の視点でいえば正しい」とする一方で「環境負荷の観点でいえば、市中心部の処理場がなくなったことで、輸送によるコスト増やCO2排出に影響がある」と指摘。真の循環型社会を目指す上では、廃棄物処理についても行革による集約化・広域化の視点だけではなく、新技術をいかした自区内処理に努める必要もあると前を見据える。
現在は大阪の課題や問題を吸い上げ、国に反映する橋渡し役として汗をかく毎日だ。大阪都構想の住民投票などで、市井の声の力を体感し「政治は住民の声があれば、マグマのよう物事が進む」と話す。自身も日々、住民の声を聴くことが政治活動だとして、情報発信や信頼関係構築の重要性を説く。「父の死
をきっかけにサラリーマンから転身したが、政治の世界の非日常性を常に感じてきた。政治家らしくないかもしれないが、一般的な感覚をこれからも持ち続けたい」。市民に寄り添う政治信念をこれからも貫いていく。



