
医師・弁護士として活躍したが、子どもの頃から夢見た政治への道を諦められなかった。
順風満帆とは言えない政治家生活だが、論戦にめっぽう強く、存在感は際立っている。
豪雪地帯で米どころの新潟県北魚沼郡湯之谷村(現在の魚沼市)で生まれた。幼い頃から勉強が得意で、政治への関心も高かった。「冬場は往復1時間かけて通った通学路が、消雪パイプが整備されて20分で行けるようになった。政治の力はすごいと思った」
地元の小学校卒業後は、新潟大学付属長岡中学校に進学。高校は全国の名だたる進学校を複数受験したが、地方からの受験は体力的にも厳しかった。「最初に灘高校から合格通知が来たので、そこで受験をやめた」
東京大学理科三類に合格したが、ここで人生に〝迷走〟することになる。医学部に進み1992年に医師免許を取得したものの、その後は同大大学院経済学系研究科に進学。「教養学部(1・2年)時代、中曽根康弘政権のブレーンだった政治学者の佐藤誠三郎氏のゼミに参加した。そこで『政治家を目指すなら法律だけ勉強してもダメ。マクロ経済学が絶対に必要』という佐藤氏の言葉に感銘を受けた」。ところが、96年には同大学院医学系研究科に入り、再び医学の道に戻った。「地盤・看板・カバンがなく、人付き合いも得意ではなかった。政治家は半ば諦めていた」。この頃、司法試験にも合格した。
単位取得退学後は放射線医学総合研究所、ハーバード大学附属マサチューセッツ総合病院で研究員として勤務。2003年には医学博士を取得し、東大先端科学技術研究センター特任講師も務めた。
念願の政治家転身を果たしたが、順風満帆とはいかなかった。最初の選挙は05年の衆院選、いわゆる郵政選挙だった。自民党公認で新潟5区から立候補したが、無所属で立候補した田中真紀子氏に敗れた。政権交代が実現した09年の衆院選でも、直前に民主党入りした田中氏に惜敗。その後は医師・弁護士として働きながら、12年の衆院選に日本維新の会から出馬。田中氏と自民党前職の長島忠美氏の後塵を拝した。翌年の参院選にも新潟選挙区から出馬したが、当選できなかった。
政治への思いが実を結んだのは、16年の新潟県知事選だった。泉田裕彦前知事の柏崎刈羽原子力発電所の再稼働「慎重路線」を継承し、無所属で出馬。自公と連合新潟が推薦した前長岡市長の森民夫氏を破り当選を果たした。だが18年4月、〝文春砲〟による買春疑惑で辞任。わずか1年半の知事生活だった。
20年にはタレントの室井佑月さんと結婚。同年の衆院選に無所属で出馬し当選。22年には立憲民主党に入党し、今年10月の衆院選では柏崎市と刈羽村を含む新潟4区で当選した。