
199㎝の長身を生かし、バレーボールの日本代表選手として活躍した。
国土交通、環境大臣政務官を経験し、国土強靭化と脱炭素に力を入れたいと意気込む。
熊本市生まれ。小学6年生で身長175㎝。だが大きな体ゆえに体を上手く使えず、運動は苦手だった。
中学校でバレーボール部に所属。決して強いチームではなかったが、それが良かったと振り返る。「全国制覇など高い目標に向かってハードな練習を詰め込むことで、競技が嫌いになる人もいる。私の場合はバレーボールを楽しむことができた」
高校進学では悩みに悩んだ。勉強も嫌いではなく、受験勉強を頑張っていた一方で、全国屈指の強豪、鎮西高校からスカウトを受けていたからだ。最後まで迷ったが、「これからの競争を考えた時に、勉強とバレーボールなら分母は後者の方が少ない。バレーであれば勉強よりも高いレベルに進めるかもしれない」と自分を納得させて鎮西高校に進学した。3年次にはレギュラーとして、春高バレーとインターハイで準優勝。全日本代表にも選ばれた。
高校卒業後は法政大学に進学。部活だけでなく、学生選抜やさまざまな年代の日本代表選手として世界を飛び回った。大学を卒業した後はサントリーに入社。サントリーサンバーズではⅤリーグ3連覇に貢献した。日本代表でも中心選手となったが、心身は疲弊していた。「とにかくバレー漬けの毎日で、今自分が何のユニフォームを着ているか分からないくらい、感覚がまひしていた。当時はスポーツ選手のメンタルヘルスに対するサポートも手薄だった」
そして選手として絶頂期にあった27歳の春、スポーツ界を驚かせる衝撃の決断を下す。室内バレーボールからの引退─。周囲には「体育館でオリンピックに出られなかったからビーチで出たい」と伝えたが、モチベーションを維持できなくなった自分がいた。
〝脱サラ〟して飛び込んだビーチバレーの世界。室内バレーのトップ選手でも、最初の1年間はビーチバレー選手に手も足も出なかった。砂浜が舞台となる同種目では、室内競技よりも足腰の強さやスタミナが重要だと思われがちだ。しかし、実際は強風下でのボールコントロールなど細かな技術が求められる。体格を生かしたプレーを得意とする朝日氏が苦手とする分野だった。
それでも「また挫折してたまるか」との決意で練習を重ね、2008年の北京五輪への出場を決めた。日本男子として初勝利を挙げ、決勝ラウンドに進出。9位という成績を残した。続く12年のロンドン五輪出場を最後に現役を退いた。
ビーチバレー選手として活躍する一方で、海や砂浜の環境を考えるNPO活動などに携わり、当時から行政との関わりがあった。「アスリートは競技集中型か、ほかの活動をしながら競技力を高めていく二つのタイプに分かれる。自分は後者だった」