【業界紙の目】八田 大輔/水産経済新聞社 報道部部長代理
福島第一原発の処理水海洋放出という政府の方針決定に、地元関係者の間では「残念」のため息が漏れた。
漁業者の取り組みが無駄にならないよう、福島の漁業の未来に対する政府や東京電力の対応が問われている。
今回の決定は、福島県の沿岸漁業が操業自粛しながら試験操業するという不自然な状況を、東日本大震災後10年経ってやっと抜け出したタイミングでのものだった。
漁業者の反応はさまざまだったが、改めて「断固反対」を掲げた同県の漁業団体幹部らの間では、憤りよりも「残念」というため息が勝った。そこにはさまざまな意味を含んでいる。沿岸漁業の震災前水準への復帰が遠のいたことへの「残念」。覆しようのない政府の決定に対する「残念」。次の世代を担う後継者らに負の遺産を引き継がせることへの「残念」―。
政府は丁寧に説明を尽くし、海洋放出の開始までに漁業者の納得を得るとしているが、それは不可能に近いだろう。なぜなら海洋放出「断固反対」の旗はもう降ろせないからだ。
沿岸漁業はその土地ありき 分断内包し進んだ試験操業
沿岸漁業の多くは、ビジネスよりも家業の性格が強い。生まれた土地で前浜に漁に出て日銭を稼ぐ。地域の食文化や観光産業と根強く結び付き、地元を離れては仕事ができない。
福島の沿岸漁業は震災からまもなく、そのまま土着して漁業を続ける道を探るか、諦めて廃業するかの2択を迫られ、ほぼすべての沿岸漁業者が継続を選択した。
ただ、その理由は一様ではなかった。後継者がいるかそもそも若手の漁業者は、漁業を生業として今後も生きていく強い意志を貫いた。しかし、後継者のいない高齢の漁業者は、廃業までの賠償金を得られれば御の字だという本音が見え隠れする者も少なからずいた。
そんな分断を内包しつつも福島県の沿岸漁業はこの10年、手探りで実績を積んできた。
県による「緊急時環境放射線モニタリング検査(モニタリング)」での膨大な知見の積み重ねで、震災直後に海洋に漏えいした放射性物質の希釈・拡散が不十分な段階でも、タコ類や貝類などには放射性物質が残りにくいことが分かってきた。
そこで科学的に安全が確認されたミズダコ、ヤナギダコ、シライトマキバイ(ツブ貝の一種)の3魚種から、震災直後に海洋漏えいした放射性物質の影響が少なかった県北の相馬沖150m以深の沖合限定で試験的に漁獲し流通させ、市場の反応を確かめることにした。時は2012年6月。いわゆる試験操業の始まりだった。
試験操業の枠組みは非常に特殊だ。モニタリングで科学的な安全が確かめられた魚種から、3つの会議体による討議で第3者の意見も聞いて承認するという手続きを踏んでから、初めて実行に移した。石橋を叩いても渡らないのではと思えるほど、慎重に事を運んだ。
水揚げ日ごとに1魚種あたり1検体を自主的に調べ、放射性セシウムが国の基準値の半分に相当する50ベクレルを超えたら出荷を差し止め、漁獲を当面見合わせるという厳格な基準を設定。基準値超えの水産物が間違っても出回らないようにした。「ただの一度も基準値超えの魚をマーケットに出したことがない」という実績がいつしか小さな誇りにもなっていた。
セリ販売も見合わせ、買受人が新たに組織した組合が一括で引き受けて消費地に出荷し、売れた値段でそれぞれの手取りを逆算する形をとった。買受人からは早期の水揚げ増を求める声が強かったが、産地の受け入れ機能弱体化に目をつぶっても安全最優先を貫いた。
海洋への地下水流入による操業の一時中断、廃炉に必須とされた建屋への流入地下水の低減を目指す地下水バイパスやサブドレン水の海洋放出容認問題も苦心しつつ乗り越えた。
時間の経過による放射性物質の能力減衰、さらなる希釈・拡散、海産魚の世代交代が進む中で科学的な安全を慎重に確認しながら、対象魚種の追加、対象海域の拡大、セリ販売再開などを着実に実施していった。17年8月に漁場を原発から10㎞圏を除く全海域に広げた時までには、商業ベースに乗る魚種はすべて試験操業の対象魚種となっていた。
海産魚の出荷制限魚種がいったんゼロとなり1年以上が過ぎた21年3月末(注:5月現在はクロソイ1魚種が対象)に試験操業と決別。本来の漁業権に基づいて操業する体制に移行した。放射性物質の自主検査の継続や、出漁回数などの制限、隣県海域への入り会い(漁場の相互利用)見合わせなど、震災前と同じというには隔たりが大きいが、確実に前進してきた。正常化を急げば賠償がなくなると危惧する一部漁業者と折り合いを付けつつ、ようやくたどり着いた。政府の処理水海洋放出の基本方針決定はそこに冷や水を浴びせた。