教師の職を辞し故郷・柏崎市に戻り、原発推進・反対両派の支持を得て市長に就任した。柏崎刈羽原発の再稼働に意義を認め、集中立地のリスクを解消して共存の道を選ぶ。

「細い道を行きます」。2016年11月、柏崎市長に初当選すると、周囲にこう話した。三度目の挑戦で勝ち取った市長の職。二度の落選(04年、08年)で11年に政治団体を解散し、政治活動に終止符を打っていた。
「もう一度、市長選に出てみないか」。声を掛けたのは、原発推進・反対派それぞれのリーダー的立場の市会議員。思いもかけない人たちだった。1991年に柏崎市議に当選して以来、柏崎刈羽原発の必要性に理解を示す一方で、「再生可能エネルギーを将来の柏崎の産業の大きな柱に」と、太陽光や風力発電などの重要性を訴えていた。その姿を、多くの市議や市民が見ていた。
推進・反対両派の支持を得ての市長職。柏崎刈羽の再稼働が政策課題として浮上してくる中、「真ん中の細い道を進むしかない」と覚悟を決めた。だが、原発の在り方について、市民を対象に行ったアンケートの結果を見て、自らの考えが「細い道ではなく、ブロードウェイだった」と気付く。
推進派は「全ての原子炉を稼働すべきだ」と主張する。反対派は「再稼働を認めず、原子炉7基全てを廃炉に」と訴える。しかし、この両極端の人たちの数は限られていた。将来的に原発に依存しない、再エネを中心とした街づくりを望みながらも、約8割の市民が再稼働を容認、あるいは否定しないという立場だった。
「再稼働は認めるが、集中立地のリスクは減らしたい」―。市長として、東京電力に対して6、7号機の運転再開を容認しながらも、1基以上の廃炉計画を明確化することを要請。東電の小早川智明社長も理解を示した。20年11月の市長選では、反原発色の濃い対立候補に大差をつけて再選を果たす。「自分の考え方を、市民が現実的な選択肢として認めてくれた」。自らの判断に確かな手応えを感じた。
転機をもたらしたネパールの青年 柏崎で再エネ普及に力を注ぐ
大学卒業後、都内の女子中・高校で国語教師として教壇に立つ。夏・冬などの長期休暇になると、ヒマラヤ山脈をはじめ世界中の名峰を訪れ、趣味のトレッキングを満喫。柏崎市に戻り市政に参加することは、考えていなかった。
しかし、ネパール・カトマンズのゲストハウスで知り合った青年の発言が、「故郷に戻り何かをしたい」という思いを呼び起こす。90年、イラクがクウェートに侵攻し、湾岸戦争が始まる。開戦を伝える新聞を手にした青年が、「クウェートを助けるためにネパールはグルカ兵を送る。大量の原油を買っている日本は何をするんだ」と詰め寄ってきた。「ネパールのような貧しい国の若者でさえ、自国にプライドを持ち、国の在り方を考えている」。青年の言葉が脳裏から離れず、郷里に戻り市議選への出馬を決意する。28歳の時だった。
日本で最初に石油精製が行われ、世界最大級の出力を持つ原発サイトがあるエネルギーの街、柏崎市。市議となり、石油、原子力に次ぐエネルギーとして再エネの将来性に注目し、環境問題にも取り組んできた。市長としても、脱炭素社会を視野に入れ、「エネルギーの街3・0」の構想を掲げている。地域エネルギー会社を中核企業として、再エネの電気を地域、また将来的には首都圏の需要家に届けたいというものだ。
一方、依然逆風が強く吹く原子力。「日本経済を支えている低廉・安定的な電源であり、温室効果ガスを出さない環境エネルギー。運転には国家的な意義がある」と、原発について重要性の認識は変わらない。中でも柏崎刈羽の稼働については、その必要性を独自の視点で語る。
「福島第一原発事故の一義的な責任者は国であり、国を構成する国民一人ひとりに責任がある。本来ならば国民が福島の復興、賠償の費用を税、電気料金の値上げという形で負担するべきだ。しかし、そこには限界がある。誠に皮肉だが原発の再稼働により、東電が得る利益を復興、賠償に充てるしかない」
福島事故により、今も新潟県には原子力に対して否定的な考えを持つ人たちが少なくない。柏崎刈羽の再稼働では、民意をどう捉えるかが課題になる。困難な判断を迫られるが、「日本は代表民主制を取る。議会での議論を重視して、民意は議会を通して得ていく」。18年の県知事選での公約で〝県民の信を問う〟とした花角英世知事にも、「県議会を通した民意の把握をしていただきたい」と望んでいる。
幼少期からの趣味である登山では、アフリカ・キリマンジャロの山頂に立ったこともある。今も休日には、柏崎市周辺の山々でのトレッキングを楽しむ。フランスの哲学者、アランの著作を愛読。「雨の日に笑え」を座右の銘とする。