テーマ:原子力の安全規制
原子力規制委員会が発足して来年で10年。この間、原子力発電所の再稼働が認められたのは9基にすぎない。カーボンニュートラル宣言で原発の役割が見直される中、規制委の在るべき姿について専門家が語り合った。
〈出席者〉 A電力業界人 B学識者 Cジャーナリスト
―原子力規制委員会が2012年9月に発足し、新体制による安全規制行政が来年で10年目を迎える。「功罪」の両面があると思う。まず、これまでの規制行政を振り返って感想を聞きたい。
A まず「功」として、やはり原発の安全性を圧倒的に向上させたことは事実だ。厳しい規制基準を作り、安全審査では、炉心溶融などの重大事故が起きてもセシウム137の放出が100テラベクレルを超えないことを「合格」の基準とした。さらに安全目標として、放出量が100テラベクレルを超える重大事故が起きる頻度を100万炉年に1回程度としている。
設備面での安全性を評価するために、PRA(確率論的リスク評価)が必要となり、その活用が進んだこともよかったと思っている。運転管理の点でも、米国流の新検査制度の導入を評価している。事業者の現場での自主的な安全性向上を促すことになった。これから事業者は、新制度にしっかり応えていくことが大切になる。
B 安全性が向上したのは、事業者に膨大な費用を負担させて設備を造らせたためだ。ある意味で当たり前だろう。
私は規制委には「五つの大罪」があると思っている。①法的根拠のない「田中私案」で原発を全て止めたこと、②安全目標の最上位概念である死亡確率を棚上げにしたこと、③科学的・合理的ではない「活断層」審査を行っていること、④特重(特定重大事故等対処施設)のような不必要な施設を事業者に強要していること、⑤適合性審査に予見性がないこと―の五つだ。
中でも、死亡確率の安全目標を棚上げにしたことの責任は重い。棚上げにしたことで、新規制基準によって原発の安全性が確保されたのか、今も国民には曖昧なままになってしまっている。
A もちろん、事業者として言いたいことは山ほどある。新規制基準の適合性審査のスピードが遅く、東日本の原発の多くが稼働していない。重大事故対策の設備も、本当に全て必要かという疑問がある。しかし、われわれとしては、それらが「合格」の基準として決まってしまったからには、受け入れざるを得ない。
C 私も思いつくのは、Bさんと同じで、まず「罪」の面だ。再稼働が遅れている最大の理由の断層調査で、「神学論争」を繰り返している。規制委が耐震・対津波の基準を作る際、それまで原子力耐震を担ってきた工学系の学者の声をほとんど聞かなかった。
一方で、変動地形学など理学系の学者の主張を大きく取り入れ、結果として地震や津波のリスクは「青天井」になってしまった。
それで、不毛な議論を延々と続けることになった。BWR(沸騰水型軽水炉)は1基も動いていないし、PWR(加圧水型軽水炉)でも、泊原発1~3号機のように塩漬け状態のプラントが出ている。
行政手続法は、申請が出た場合「遅滞なく審査を開始しなければならない」と定めている。規制委は、福島事故後の「狂騒状態」の中で生まれた組織なので、当初は行政組織としての体をなしていなかった。それは仕方のない面もあった。しかし、今も行政手続法にのっとった許認可行政をしていない組織だと思っている。
安全目標・死亡確率を棚上げ 説明責任を果たしているか
―死亡確率を利用した安全目標を棚上げにしたことには批判が多くある。
A 死亡確率は、「原発にはこれだけのリスクがあります」と世の中に知らしめて、自動車・飛行機事故や自然災害などと比較して、原発事故のリスクが低いことを理解してもらうための指標だ。これを明らかにしないと、膨大な費用をかけて安全対策をしながら、それが何のためだったのか国民は理解できない。事業者も、安全対策の設備などによって「これだけ安全性が向上しました」と、確信を持って言うことができない。
―なぜ定めないのか。
B 田中俊一前委員長に決める考えがなかった。田中さんは新規制基準ができた後、最初に稼働した川内原発について、記者から「安全になったと言えるか」と問われて、「安全だとは私は言わない」と答えている。死亡確率という究極の安全目標がグレーだからそう言うほかなかったのだろう。自ら棚上げにしておきながら、こんな無責任な発言はない。
田中さんは以前の著作で、「科学者は社会的責任を果たすべきだ」と述べている。だが、死亡確率の棚上げは、まさにその社会的責任の放棄そのものである。自家撞着が甚だしい。
A 国民から見ると、規制委が合格を出しながら、委員長が「安全だとは私は言わない」と発言したら、「何のための審査なんだ」と思ってしまう。
世界の多くの国が安全目標として、死亡確率は1炉年当たり10のマイナス6乗と定めている。つまり、死亡する頻度は100万年に1回ということだ。












